土佐の女性(後)(2015/01/21)
彼女はその後、医学書院から「医療安全ワークブック」など数々の名著を出版した。講演なども、話し言葉がそのまま書き言葉になれるという明快な論理的な展開が上手で、うらやましく思うことだった。ただ時間にはちょっとルーズなところもあり、熱心さのあまり講演時間が延長してしまうこともあった。
ところが、どのような経緯があったのかは知らないが、医療安全に関しては国の仕事からは足を洗って、杏林大学で救命士などの教育に意を注ぐようになる。九州医務局から東京に出てくるときも、「私は後を振り返らない主義なの。厚労省の上司で身の振り方を心配してくれる人もいたけど、私は自分で探したわ」と、けれんみのないところが魅力の一つである。
彼女と最後に食事したのは2年ほど前で、私の人事院総裁賞のお祝いをしてくれた。場所は吉祥寺の沖縄料理店で、彼女が予約してくれていた。彼女と食事するときにはその時点で「稼ぎの多い方」が負担することになっており、彼女の出版した本で印税がたくさん入ったときにはおごってもらった。
この時、たまたま村木厚子さんの冤罪がはれた時期で、次のような会話がなされた。
「あの事件当時も『土佐の女は部下に罪をなすりつけて平然としておられることは絶対にない』と思っていたのだけで、冤罪だとわかって、本当に嬉しかった。彼女とは面識はないのだけど、土佐高の数年後輩なのよ」。
またこの夜、紙袋を開いて、大きな箱を取り出し、「先生のお祝いにと思って、さっきビッグカメラで、最後に残っていたWindows 8タブレット(富士通)を買って、ワードやエクセルも入れてもらったのよ。新しいものに挑戦しないと、頭がぼけるわよ」と言われた。パワーポイントが導入されたときも川村さんはいち早く飛びついて、瞬く間にマスターして、理解の悪い私を小馬鹿にしていたことを思い出した。結局、この夜も私の反応が今一悪いのを見抜いたのか、「先生の息子さんなら喜ぶと思うけど・・・先生には別の贈り物に考えるから、このタブレットは私が使うわね」と、この辺りはいつものきっぷがよすぎて取り上げられてしまった。
川村さんとは20年にわたる付き合いで、彼女は狩猟民族、私は農耕民族的な発想である。ただ基本的な価値観や考え方が似通っているのか、男と女という関係を超えた私にとっては代え難いいい友のお一人である。
ところで、川村先生の話の中に出てきた現在厚労省の事務次官である村木さんも土佐のご出身だが、私は2年ほど前に彼女が社会援護局長の時に対談したことがあった。この時には、川村さんのことも話題にした。主に私が話し役で局長は聞き役に回ってくれたが、相づちを打ちながら、難病関係のこともよく理解していただいたように思う。私にとって最も関心の強かった「あのような極限状況で、どうして強くなれたのですか」という質問には、「やはり家族の存在が大きかったと思います。特に二人の娘には、どのような状況でも母親として正しいと思える姿を範で示さなければならないと思っていました」と言われたが、さすがだと思った。最後に「国立病院機構の職員へのメッセージを一言」というリクエストには次のように答えられた。
「あのような思いがけない経験をして思ったことは、萎える気持ちになったときに一番支えになり頼りに思ったことは二つありました。一つはプロの技でした。具体的には有能な弁護士からの正しい助言です。皆さんは医療のプロとして、それぞれの職域で腕を磨いて、患者さんの期待に応えて欲しいと思います。そしてもう一つが、私を精神的に支えてくれた家族や友人の励ましです。皆さんは日常の医療の現場で、患者さんの傍に寄り添って、いつも励まして力強い味方になって欲しいと思います」。
ところが、どのような経緯があったのかは知らないが、医療安全に関しては国の仕事からは足を洗って、杏林大学で救命士などの教育に意を注ぐようになる。九州医務局から東京に出てくるときも、「私は後を振り返らない主義なの。厚労省の上司で身の振り方を心配してくれる人もいたけど、私は自分で探したわ」と、けれんみのないところが魅力の一つである。
彼女と最後に食事したのは2年ほど前で、私の人事院総裁賞のお祝いをしてくれた。場所は吉祥寺の沖縄料理店で、彼女が予約してくれていた。彼女と食事するときにはその時点で「稼ぎの多い方」が負担することになっており、彼女の出版した本で印税がたくさん入ったときにはおごってもらった。
この時、たまたま村木厚子さんの冤罪がはれた時期で、次のような会話がなされた。
「あの事件当時も『土佐の女は部下に罪をなすりつけて平然としておられることは絶対にない』と思っていたのだけで、冤罪だとわかって、本当に嬉しかった。彼女とは面識はないのだけど、土佐高の数年後輩なのよ」。
またこの夜、紙袋を開いて、大きな箱を取り出し、「先生のお祝いにと思って、さっきビッグカメラで、最後に残っていたWindows 8タブレット(富士通)を買って、ワードやエクセルも入れてもらったのよ。新しいものに挑戦しないと、頭がぼけるわよ」と言われた。パワーポイントが導入されたときも川村さんはいち早く飛びついて、瞬く間にマスターして、理解の悪い私を小馬鹿にしていたことを思い出した。結局、この夜も私の反応が今一悪いのを見抜いたのか、「先生の息子さんなら喜ぶと思うけど・・・先生には別の贈り物に考えるから、このタブレットは私が使うわね」と、この辺りはいつものきっぷがよすぎて取り上げられてしまった。
川村さんとは20年にわたる付き合いで、彼女は狩猟民族、私は農耕民族的な発想である。ただ基本的な価値観や考え方が似通っているのか、男と女という関係を超えた私にとっては代え難いいい友のお一人である。
ところで、川村先生の話の中に出てきた現在厚労省の事務次官である村木さんも土佐のご出身だが、私は2年ほど前に彼女が社会援護局長の時に対談したことがあった。この時には、川村さんのことも話題にした。主に私が話し役で局長は聞き役に回ってくれたが、相づちを打ちながら、難病関係のこともよく理解していただいたように思う。私にとって最も関心の強かった「あのような極限状況で、どうして強くなれたのですか」という質問には、「やはり家族の存在が大きかったと思います。特に二人の娘には、どのような状況でも母親として正しいと思える姿を範で示さなければならないと思っていました」と言われたが、さすがだと思った。最後に「国立病院機構の職員へのメッセージを一言」というリクエストには次のように答えられた。
「あのような思いがけない経験をして思ったことは、萎える気持ちになったときに一番支えになり頼りに思ったことは二つありました。一つはプロの技でした。具体的には有能な弁護士からの正しい助言です。皆さんは医療のプロとして、それぞれの職域で腕を磨いて、患者さんの期待に応えて欲しいと思います。そしてもう一つが、私を精神的に支えてくれた家族や友人の励ましです。皆さんは日常の医療の現場で、患者さんの傍に寄り添って、いつも励まして力強い味方になって欲しいと思います」。