土佐の女性(前)(2015/01/20)
作家の宮尾登美子さんが2014年12月30日、老衰のため88歳で亡くなられた。1月9日の日経新聞の文化欄では、翻訳家の大森望さんが「宮尾登美子氏を悼む」という一文を寄せている。大森さんは高知新聞の記者だった母が宮尾さんと親しくしていた関係で、宮尾さんの腕に抱かれて育ったのだという。
宮尾さんご自身、何度も辛い体験をされている。1926年に高知の遊郭で芸妓紹介業を営む岸田猛吾の子として生まれ、12歳で父母が離婚し父に引き取られる。1944年に満蒙開拓団の一員として家族で満洲に渡り、長女を出産するが、敗戦のため辛酸をなめ、1946年高知へ命からがら引き揚げる。1947年肺結核で病臥する。
1979年、それまで劣等感を感じていた生家のことを書く決心をし、『櫂』を自費出版し1973年太宰治賞を受賞し出世作となる。1997年、『陽暉楼』で直木賞候補。『寒椿』で女流文学賞受賞、「絃の琴」で直木賞を受賞した時には53歳だった。
宮尾さんの代表作の、「櫂」という小説のテレビドラマ化された作品を見た覚えがあったが、調べてみると2000年に松たか子の主演で放映されている。その時、私は感動して本を買って読んだ。
高知を舞台に、自らの体験をもとに「大正」から「昭和」を生き抜いた庶民の姿を描いたものである。喜和は15歳で、渡世人で女衒である岩伍の稼業に飛び込んでいった。しかし生まれ育った環境の違いから、喜和は岩伍の稼業をよしとはせず、二人の関係は破局へと向かっていくという物語である。
大森さんによると、宮尾さんのざっくばらんで合理的な性格は、その後、国民的ベストセラー作家になっても変わらなかったし、いつまでも土佐弁にこだわり、負けん気が強くて意地っ張りで、たくましい土佐の“はちきん”であり続けた。はちきんとは、「男勝りの女性を指す土佐弁」で、高知県女性の県民性を表した言葉だそうである。
この追悼文の終わりは「もしもし、誰かわかるかね?」と突然の電話が来ることがもうないと思うとつくづくそれが寂しい、となっているが、大森さんの気持ちがよく表現されている。亡くなったかたを、いろいろなことにつけ思い出すものである。
私の知っている土佐県人で、すぐに思い出すのはやはり川村治子さんである。いい意味での「はちきん」のお一人かも知れない。付き合いは、先生が当時の九州医務局の医療課長をされていた時代にさかのぼる。現在は東京に出られて、杏林大学の保健学部の教授として活躍されている。忘れたころに東京で夕食を一所にしているが、最近はまた長いことご無沙汰している。
私が平成10年に院長に就任して4ヶ月後に院内火災があったことは何度も書いてきたが、このようなことが契機となって、医療安全を含むリスクマネジメントと取り組みたいと思っていた。当時川村さんは医療課長で、副院長時代から親しくしてもらっていた縁で医療安全対策の指導をお願いした。ちょうどこの時期は、横浜医大で患者取り違え事故が発生して、日本国中で医療安全への機運がにわかに高まっていた。
川村さんは職員の意識改革に始まり、ヒヤリハットの収集・分析、そして医療安全対策に至るまで何度も講演に来て頂いて、病院としての医療安全対策の礎を築いてくれたのである。私はこのような実績があったからか、平成11年につくられた厚労省のリスクマネジメントスタンダードマニュアル作成委員会の委員長をすることになり、このことが契機になって、その後の国のさまざまな医療安全対策に係わることになる。
宮尾さんご自身、何度も辛い体験をされている。1926年に高知の遊郭で芸妓紹介業を営む岸田猛吾の子として生まれ、12歳で父母が離婚し父に引き取られる。1944年に満蒙開拓団の一員として家族で満洲に渡り、長女を出産するが、敗戦のため辛酸をなめ、1946年高知へ命からがら引き揚げる。1947年肺結核で病臥する。
1979年、それまで劣等感を感じていた生家のことを書く決心をし、『櫂』を自費出版し1973年太宰治賞を受賞し出世作となる。1997年、『陽暉楼』で直木賞候補。『寒椿』で女流文学賞受賞、「絃の琴」で直木賞を受賞した時には53歳だった。
宮尾さんの代表作の、「櫂」という小説のテレビドラマ化された作品を見た覚えがあったが、調べてみると2000年に松たか子の主演で放映されている。その時、私は感動して本を買って読んだ。
高知を舞台に、自らの体験をもとに「大正」から「昭和」を生き抜いた庶民の姿を描いたものである。喜和は15歳で、渡世人で女衒である岩伍の稼業に飛び込んでいった。しかし生まれ育った環境の違いから、喜和は岩伍の稼業をよしとはせず、二人の関係は破局へと向かっていくという物語である。
大森さんによると、宮尾さんのざっくばらんで合理的な性格は、その後、国民的ベストセラー作家になっても変わらなかったし、いつまでも土佐弁にこだわり、負けん気が強くて意地っ張りで、たくましい土佐の“はちきん”であり続けた。はちきんとは、「男勝りの女性を指す土佐弁」で、高知県女性の県民性を表した言葉だそうである。
この追悼文の終わりは「もしもし、誰かわかるかね?」と突然の電話が来ることがもうないと思うとつくづくそれが寂しい、となっているが、大森さんの気持ちがよく表現されている。亡くなったかたを、いろいろなことにつけ思い出すものである。
私の知っている土佐県人で、すぐに思い出すのはやはり川村治子さんである。いい意味での「はちきん」のお一人かも知れない。付き合いは、先生が当時の九州医務局の医療課長をされていた時代にさかのぼる。現在は東京に出られて、杏林大学の保健学部の教授として活躍されている。忘れたころに東京で夕食を一所にしているが、最近はまた長いことご無沙汰している。
私が平成10年に院長に就任して4ヶ月後に院内火災があったことは何度も書いてきたが、このようなことが契機となって、医療安全を含むリスクマネジメントと取り組みたいと思っていた。当時川村さんは医療課長で、副院長時代から親しくしてもらっていた縁で医療安全対策の指導をお願いした。ちょうどこの時期は、横浜医大で患者取り違え事故が発生して、日本国中で医療安全への機運がにわかに高まっていた。
川村さんは職員の意識改革に始まり、ヒヤリハットの収集・分析、そして医療安全対策に至るまで何度も講演に来て頂いて、病院としての医療安全対策の礎を築いてくれたのである。私はこのような実績があったからか、平成11年につくられた厚労省のリスクマネジメントスタンダードマニュアル作成委員会の委員長をすることになり、このことが契機になって、その後の国のさまざまな医療安全対策に係わることになる。