血液センター創立50周年記念式典から(後)(2015/02/25)
榎木の父と母の出会いは劇的である。昭和21年、母クニと復員してきた父孝志が、同じ学校の教師として出会った。戦時中に父が台湾で結核になったときにクニの妹のトミの世話になり、恋仲だった。しかし母クニは手紙で告白をして、昭和22年5月に2人は結婚した。その後、妹トミも結婚し幸せな家庭を築いた、となっている。テレビでは92歳になったトミが昔の思い出を語っていた。(クニは施設に入所らしい)。
映像を見た榎木孝明 は「叔母と母の関係は初めて知った。母が情熱的な手紙を送ったことに驚いた。なんでこんなすてきな人生を聞かせてくれなかったのか残念ですが、ほっとしたところもある」と語っていた。そして父からよく言われていた「薩摩の男なら黙って耐えろ」という言葉が、困難な場面に遭遇した時の激励の言葉になっているという。
私の父も師範学校を出て教師となり、フィリッピン戦線に従軍、復員してから教職を続け、定年後の61歳の時に、くも膜下出血で急逝した。母も教職にあったが、榎木さんの父母のような「劇的な出会い」ではなかっただろう。榎木さんも「父が20歳の時に亡くなったので、戦争のことなど聞いたことはありませんでした」と話されていたが、私も一度も「父の歴史」は聴いたことはなかった。家では寡黙な人だった。
講演会の後は、血液センターにかかわる6人のシンポジストによるシンポジウムが開かれた。なかでも、特に印象に残ったのは二人の女性である。
一人は南日本放送のアナウンサーの上野知子さんである。MBCの看板アナウンサーだったが、一時姿を消していたときがあった。46歳の時に、体がだるいと思って医師を受診したら、検査の結果、急性骨髄性白血病と診断された。妹が名古屋に住んでいたこともあり、名古屋大学病院で治療を受けることになった。化学療法から始めたが奏功せず、末梢血胚細胞移植の治療を受けた。化学療法の時の大変さや、自らの体験を通して輸血血液の有り難さを語った。「貧血になると、体全体が冷たくなります。ところが輸血で血液が一滴一滴と体の中に入ってくると、体が温かくなっていき、血液のあり難さを実感できました」と淡々と語られていた。
「私は不思議な体験の持ち主です。病気の前はA型だったのですが、現在はAB型です」と笑いながら言われた。のちの懇親会の時に、ミーちゃんハーちゃん的興味で、「性格が変わりましたか」と聞いてみたら、「みんなに言われるんですが、同じようですね」と言われた。たまたま先日のテレビにも出演されていたが、とても55歳という年齢には見えず、白血病でも治る時代になったと一般の人にわかってもらえる生き証人としても、今後も活躍してほしいと思った。
もう一人の方は、輸血応援隊の桐原恵美子さんという80歳の女性である。
真っ赤な衣装で登壇されたが、後で聴くと80歳だということである。
36歳の時に夫が輸血で助かったことが縁となって、70歳までに208回の献血をされたそうである。現在もボランティアで、「家(鴨池新町)から歩いてきて、天文館で大声を張り上げて献血をお願いしています。そのお陰で健康長寿を頂いております」ということだった。懇親会の時にテーブルを訪ねると「先生の講演を以前お聞きしたことがあります。感激しました」とお世辞もいただいて、万歩計談議で盛り上がった。なんと桐原さんは毎日、2万歩以上歩いているそうで、とても私はかなわない。でも心身ともお元気で「人助けは自分助け」を地で行かれている方である。
映像を見た榎木孝明 は「叔母と母の関係は初めて知った。母が情熱的な手紙を送ったことに驚いた。なんでこんなすてきな人生を聞かせてくれなかったのか残念ですが、ほっとしたところもある」と語っていた。そして父からよく言われていた「薩摩の男なら黙って耐えろ」という言葉が、困難な場面に遭遇した時の激励の言葉になっているという。
私の父も師範学校を出て教師となり、フィリッピン戦線に従軍、復員してから教職を続け、定年後の61歳の時に、くも膜下出血で急逝した。母も教職にあったが、榎木さんの父母のような「劇的な出会い」ではなかっただろう。榎木さんも「父が20歳の時に亡くなったので、戦争のことなど聞いたことはありませんでした」と話されていたが、私も一度も「父の歴史」は聴いたことはなかった。家では寡黙な人だった。
講演会の後は、血液センターにかかわる6人のシンポジストによるシンポジウムが開かれた。なかでも、特に印象に残ったのは二人の女性である。
一人は南日本放送のアナウンサーの上野知子さんである。MBCの看板アナウンサーだったが、一時姿を消していたときがあった。46歳の時に、体がだるいと思って医師を受診したら、検査の結果、急性骨髄性白血病と診断された。妹が名古屋に住んでいたこともあり、名古屋大学病院で治療を受けることになった。化学療法から始めたが奏功せず、末梢血胚細胞移植の治療を受けた。化学療法の時の大変さや、自らの体験を通して輸血血液の有り難さを語った。「貧血になると、体全体が冷たくなります。ところが輸血で血液が一滴一滴と体の中に入ってくると、体が温かくなっていき、血液のあり難さを実感できました」と淡々と語られていた。
「私は不思議な体験の持ち主です。病気の前はA型だったのですが、現在はAB型です」と笑いながら言われた。のちの懇親会の時に、ミーちゃんハーちゃん的興味で、「性格が変わりましたか」と聞いてみたら、「みんなに言われるんですが、同じようですね」と言われた。たまたま先日のテレビにも出演されていたが、とても55歳という年齢には見えず、白血病でも治る時代になったと一般の人にわかってもらえる生き証人としても、今後も活躍してほしいと思った。
もう一人の方は、輸血応援隊の桐原恵美子さんという80歳の女性である。
真っ赤な衣装で登壇されたが、後で聴くと80歳だということである。
36歳の時に夫が輸血で助かったことが縁となって、70歳までに208回の献血をされたそうである。現在もボランティアで、「家(鴨池新町)から歩いてきて、天文館で大声を張り上げて献血をお願いしています。そのお陰で健康長寿を頂いております」ということだった。懇親会の時にテーブルを訪ねると「先生の講演を以前お聞きしたことがあります。感激しました」とお世辞もいただいて、万歩計談議で盛り上がった。なんと桐原さんは毎日、2万歩以上歩いているそうで、とても私はかなわない。でも心身ともお元気で「人助けは自分助け」を地で行かれている方である。
