若手機長の片輪着陸(2015/02/23)
朝の師長の申し送りの会議で、この事例に関することは何度も耳にしていたが、実際にはこの方にお会いする機会はなかった。2月初めごろの会議で、「下血のために入院されて緊急手術になった人は、医療安全のことではすごく偉い方らしいですよ。何でも、昔は有名な機長さんだったとか」に始まって、2月中旬ごろには「よくなって退院されました。帰られるときには『私もいくつかの病院をみてきましたが、いろんな面でこんなにいい病院はありませんでした』とお褒めの言葉も頂きました。何でも日本医療機能評価機構にも関係があるらしいです」と言うことだった。
個人情報を考えると、名前を挙げるのは少し憚られるが、後の「人間力」のエピソードで出てしまうので、お許しいただきたい。
塚本さんは鹿児島を旅行中に突然下血して、いくつかの救急病院を回ったが受け入れてもらえず、瀕死の状態で当院に辿り着かれたようである。診断も、また術中診断も消化器内科と外科がコラボーレートしてなされたようで、緊急手術の後、順調に回復されて退院に至った。このように内科と外科が緊密に連携して事にあたれるのは当院の強みである。
さてその塚原さんであるが、1949年のお生まれで立教大学経済学部卒業後、•南カリフォルニア大学ヒューマンファクター課程修了し、 日本航空インターナショナル機長をされたのち航空運航システム研究会理事、•日本人間工学会 会員、航空運航システム研究会理事を歴任されている。「機長の危機管理」講談社 (共著)、「あなたは事故を起こさないか」航空運航システム研究会 (共著)、「環境災害事故の辞典」丸善 (共著)、「そのとき機長は 生死の決断」講談社 (共著)、「品質とヒューマンファクター」日科技連出版 (共著 2012年)など著書も多い。
岡本呻也の人間力」エピソード集から「YS-11機 若手機長の片輪着陸」の部分をそのまま引用する。
責任者やリーダーとしての自分を信頼してもらうためには、どのようなやり方があるだろうか。
1979年7月21日午前8時38分、東亜国内航空381便南紀白浜行きYS−11機は、満席の乗客を乗せて羽田空港を飛び立った。機長は国内最年少の25歳で機長となり、5年目となった塚原利夫である。またこの日は当時28歳だった人気女優の由美かおるも、白浜での午後からのステージのためにたまたま乗り合わせていた。
機長が離陸後車輪を格納しようとしたところ、同時に消えるはずの車輪格納ランプの、左後輪のランプが消えるのがほんの少し遅いことに気がついた。そこで塚原は副操縦士に「再度車輪を出し、格納するように」と指示を出したが、その時左後輪が出ないということが判明したのである。
このとき副操縦士が車輪を出そうとスイッチを必死で操作する音が客室にまで響き、乗客たちは「何か起こったのだろうか」と不安を感じ始める。
8時53分、塚原は羽田管制塔に「引き返したい」と連絡した。これに対し管制塔はいったん房総半島沖で待機するように指示を出した。塚原機長は、現状を乗客に説明するためにマイクを握った。
「ご搭乗の皆様。当機は左の車輪が出ないというトラブルに見舞われたため、目的地に向かわず、羽田空港に戻ることになりました。その際、胴体着陸の可能性もありますが、できる限りの手段を尽くしますのでどうかご安心ください」
このアナウンスを聞いた乗客たちの間に一気に不安が広がった。客室乗務員から、お客さまから「万一の時にはどのようなことになるのか説明してほしい」という質問がたくさん寄せられていますとの報告を受けた塚原は、副操縦士に操縦をゆだね、状況を説明するために客席前部の通路に立って乗客たちに説明を行った。
その後通路を歩いてすべての乗客の目を見ながら質問に答え、お互いの心を開いて乗客たちの不安を取り去ろうととした。由美かおるの姿に気づいた塚原は、「由美さんですね、大丈夫ですか?」と彼女に声をかけ、由美は「大丈夫です」と明るく答えた。
乗客の中には、塚原に、「お前では話にならないから機長を出せ」と詰め寄る乗客もいたが、塚田が冷静に「わたしが機長です」と答えると、その乗客は「こんな若い機長で大丈夫なのか」と震えながら言葉を詰まらせた。その乗客に対して塚原は、「もう機長として5年飛んでおります」と答えたのだが、彼も乗客たちの不安を強く感じただけで操縦席に戻るしかなかった。
「乗客の命を預かる機長として、また最終的には危険な操縦をしなければならない立場として、全乗客の信頼を得ておきたい」
操縦席で思い悩んだ塚原は、やおら副操縦士に、「お客さまにぼくたちが操縦しているところを見てもらうのはどうだろうか」と提案した。ハイジャック防止のために乗客が操縦室に立ち入ることは固く禁止されている。しかしこの当時は、緊急時にはすべての判断が機長にゆだねられていた。さっそく子供たちが操縦室にやってきて、計器についての質問をした。それに対して操縦士たちは明るい表情で答えた。彼らがふだんと変わる様子もなく仕事をしていることこそが、乗客にとって一番の安心材料だったのである。
乗客たちは機長の肩をたたき、「あとはあなたたちにおまかせするしかないのでよろしくお願いします」と言って客席に戻っていった。塚原は乗客たちの信頼を得ることに成功したのだ。
10時45分、急上昇、急降下を繰り返しその衝撃で車輪を出すという最後の試みを行うものの、車輪は出なかった。
10時58分、381便は緊急事態を宣言し羽田空港は閉鎖された。塚原は胴体着陸よりも乗客への衝撃が低いであろう片輪着陸を決断する。機体が損傷する可能性があるので女性や子供を通路側に移動させる。この時乗客たちは覚悟を決めた。
塚原は機体のバランスを微妙に調整しつつ滑走路へのアプローチを試みた。乗客たちは恐怖と不安を鎮めるために祈るしかなかった。YS−11は見事な角度で滑走路に進入、前輪と右後輪でバランスを保ちつつ減速し、ゆっくりと左翼を滑走路におろして滑走した。左翼の接地後、機体は右周りで150度ほど大きく回転し、火花を散らすこともなく滑走路からやや外れて停止した。11時40分のことである。すぐに28台の消防車が機体に向かい、エンジンに放水した。
由美かおるはインタビューに答えて、「着陸前に機長に、緊張してくださいといわれたが、機長の声がゆったりとした自然体で、車輪が出ないことを忘れてしまうほど安心することができる状態を作ってくれた。わたしは逆にリラックスして鼻歌を歌っているような感じでした」と話している。
機長は着陸後、「大けがをなされた乗客もなく、わたし自身または乗員すべて同じ気持ちだと思いますが、たいへん幸せに思います」と抑制の利いた声でインタビューに答えた。
塚原機長は、自分たちが平常心を持って対処している姿勢を乗客に見せることによって、乗客の揺るぎない信頼を獲得し、ダメージを見事にコントロールしたのである。
(参考:朝日DVDブック・YS -11栄光のつばさ)
それにしても30歳という若さで冷静な判断のできる人である。
個人情報を考えると、名前を挙げるのは少し憚られるが、後の「人間力」のエピソードで出てしまうので、お許しいただきたい。
塚本さんは鹿児島を旅行中に突然下血して、いくつかの救急病院を回ったが受け入れてもらえず、瀕死の状態で当院に辿り着かれたようである。診断も、また術中診断も消化器内科と外科がコラボーレートしてなされたようで、緊急手術の後、順調に回復されて退院に至った。このように内科と外科が緊密に連携して事にあたれるのは当院の強みである。
さてその塚原さんであるが、1949年のお生まれで立教大学経済学部卒業後、•南カリフォルニア大学ヒューマンファクター課程修了し、 日本航空インターナショナル機長をされたのち航空運航システム研究会理事、•日本人間工学会 会員、航空運航システム研究会理事を歴任されている。「機長の危機管理」講談社 (共著)、「あなたは事故を起こさないか」航空運航システム研究会 (共著)、「環境災害事故の辞典」丸善 (共著)、「そのとき機長は 生死の決断」講談社 (共著)、「品質とヒューマンファクター」日科技連出版 (共著 2012年)など著書も多い。
岡本呻也の人間力」エピソード集から「YS-11機 若手機長の片輪着陸」の部分をそのまま引用する。
責任者やリーダーとしての自分を信頼してもらうためには、どのようなやり方があるだろうか。
1979年7月21日午前8時38分、東亜国内航空381便南紀白浜行きYS−11機は、満席の乗客を乗せて羽田空港を飛び立った。機長は国内最年少の25歳で機長となり、5年目となった塚原利夫である。またこの日は当時28歳だった人気女優の由美かおるも、白浜での午後からのステージのためにたまたま乗り合わせていた。
機長が離陸後車輪を格納しようとしたところ、同時に消えるはずの車輪格納ランプの、左後輪のランプが消えるのがほんの少し遅いことに気がついた。そこで塚原は副操縦士に「再度車輪を出し、格納するように」と指示を出したが、その時左後輪が出ないということが判明したのである。
このとき副操縦士が車輪を出そうとスイッチを必死で操作する音が客室にまで響き、乗客たちは「何か起こったのだろうか」と不安を感じ始める。
8時53分、塚原は羽田管制塔に「引き返したい」と連絡した。これに対し管制塔はいったん房総半島沖で待機するように指示を出した。塚原機長は、現状を乗客に説明するためにマイクを握った。
「ご搭乗の皆様。当機は左の車輪が出ないというトラブルに見舞われたため、目的地に向かわず、羽田空港に戻ることになりました。その際、胴体着陸の可能性もありますが、できる限りの手段を尽くしますのでどうかご安心ください」
このアナウンスを聞いた乗客たちの間に一気に不安が広がった。客室乗務員から、お客さまから「万一の時にはどのようなことになるのか説明してほしい」という質問がたくさん寄せられていますとの報告を受けた塚原は、副操縦士に操縦をゆだね、状況を説明するために客席前部の通路に立って乗客たちに説明を行った。
その後通路を歩いてすべての乗客の目を見ながら質問に答え、お互いの心を開いて乗客たちの不安を取り去ろうととした。由美かおるの姿に気づいた塚原は、「由美さんですね、大丈夫ですか?」と彼女に声をかけ、由美は「大丈夫です」と明るく答えた。
乗客の中には、塚原に、「お前では話にならないから機長を出せ」と詰め寄る乗客もいたが、塚田が冷静に「わたしが機長です」と答えると、その乗客は「こんな若い機長で大丈夫なのか」と震えながら言葉を詰まらせた。その乗客に対して塚原は、「もう機長として5年飛んでおります」と答えたのだが、彼も乗客たちの不安を強く感じただけで操縦席に戻るしかなかった。
「乗客の命を預かる機長として、また最終的には危険な操縦をしなければならない立場として、全乗客の信頼を得ておきたい」
操縦席で思い悩んだ塚原は、やおら副操縦士に、「お客さまにぼくたちが操縦しているところを見てもらうのはどうだろうか」と提案した。ハイジャック防止のために乗客が操縦室に立ち入ることは固く禁止されている。しかしこの当時は、緊急時にはすべての判断が機長にゆだねられていた。さっそく子供たちが操縦室にやってきて、計器についての質問をした。それに対して操縦士たちは明るい表情で答えた。彼らがふだんと変わる様子もなく仕事をしていることこそが、乗客にとって一番の安心材料だったのである。
乗客たちは機長の肩をたたき、「あとはあなたたちにおまかせするしかないのでよろしくお願いします」と言って客席に戻っていった。塚原は乗客たちの信頼を得ることに成功したのだ。
10時45分、急上昇、急降下を繰り返しその衝撃で車輪を出すという最後の試みを行うものの、車輪は出なかった。
10時58分、381便は緊急事態を宣言し羽田空港は閉鎖された。塚原は胴体着陸よりも乗客への衝撃が低いであろう片輪着陸を決断する。機体が損傷する可能性があるので女性や子供を通路側に移動させる。この時乗客たちは覚悟を決めた。
塚原は機体のバランスを微妙に調整しつつ滑走路へのアプローチを試みた。乗客たちは恐怖と不安を鎮めるために祈るしかなかった。YS−11は見事な角度で滑走路に進入、前輪と右後輪でバランスを保ちつつ減速し、ゆっくりと左翼を滑走路におろして滑走した。左翼の接地後、機体は右周りで150度ほど大きく回転し、火花を散らすこともなく滑走路からやや外れて停止した。11時40分のことである。すぐに28台の消防車が機体に向かい、エンジンに放水した。
由美かおるはインタビューに答えて、「着陸前に機長に、緊張してくださいといわれたが、機長の声がゆったりとした自然体で、車輪が出ないことを忘れてしまうほど安心することができる状態を作ってくれた。わたしは逆にリラックスして鼻歌を歌っているような感じでした」と話している。
機長は着陸後、「大けがをなされた乗客もなく、わたし自身または乗員すべて同じ気持ちだと思いますが、たいへん幸せに思います」と抑制の利いた声でインタビューに答えた。
塚原機長は、自分たちが平常心を持って対処している姿勢を乗客に見せることによって、乗客の揺るぎない信頼を獲得し、ダメージを見事にコントロールしたのである。
(参考:朝日DVDブック・YS -11栄光のつばさ)
それにしても30歳という若さで冷静な判断のできる人である。
