新天地でも頑張ってほしい(2015/02/05)
旧第三内科の開講記念会が1月31日に城山観光ホテルで開催されたが、この夜はさしずめ「大窪先生デイ」のような感じがした。長年(8年だったかな)にわたって医局長を務められたこと、昨年の日本難病医療ネットワーク学会の事務局長としての獅子奮迅の活躍が評価されて、納賞と第三内科功労賞のダブル受賞に輝いた。そしてこの4月から、都城市の藤元病院に勤務されるという。
この受賞を、もっとも喜んだ者の一人が私だった。大窪先生とは長い付き合いがあり、そして個人的も大変お世話になってきたからである。
まずは平成4年頃だっただろうか、三内科医局からのローテイションで、2年ほど南九州病院の神経内科で働いてもらったことがある。この時に最も驚いたのが、パソコンに対する習熟の速さで、プログラムを瞬く間にマスターして自分ものにしたことである。IT音痴の私には、ただただ驚いてみているばかりだった。また看護師など他のメディカルスタッフを指導しながら、一緒に研究を進めていく姿勢に大いに好感を持ったものである。変わったところでは、当時は遊技のパチンコの全盛時代だったが、大窪先生の台にはいつも大きな箱が並んでいるという噂が耳に入った。こっそり聞いてみたら、「学生時代にパチンコ屋さんでバイトしていたときに、釘師からよくはいる台の特徴を教えてもらったんですよ」とさりげなく言われたことを覚えている。
またバイト病院として行っていた藤元病院では、都城地区のみならず宮崎県の難病のケア・システムの構築への貢献も特記されていい。そして仲間を育てながら、さまざまな学会に発表の機会をつくってあげているのも流石に大窪先生たるゆえんである。
私が南九州病院の外来で診ていたALSの患者さんに、柳田さんという女性がおられる。ご主人は宮崎県の教育界の重鎮として活躍されていたが、数年前に惜しまれながら亡くなられた。柳田さんご自身も水彩画を描いたり、自分史も執筆されるというような知的に非常に高い女性だった。「私は協調性がないから、集団生活は苦手なの。だからできるだけ自宅で療養したい」という願望を持っていて、ご主人が、そして現在は息子が介護している。私も何度か都城の自宅を訪ねたことがあるが、大窪先生はここでも私の後を引き継いで何かと面倒をみてくれている。今回、都城に活動の場を移すということで、もっとも喜ばれている一人だろう。
何と言っても私がもっともお世話になったのが、昨年11月に学会長として開催することになった日本難病医療ネットワーク学会である。自ら事務局長を申し出てくれて、その準備に全精力を傾けてくれた。準備委員会を13回も開催し、実に細かい部分まで細心の体制で臨んでくれた。いつも穏やかな笑顔で、いやな顔一つすることなく、懸案事項とも真正面から前向きに取り組んでくれた。ある意味では補佐役的な仕事になるが、このような人が支えてくれて学会も成功したものと思っている。
今後、藤元病院を中心にしながら、宮崎県の難病医療や在宅ケア・システムの構築に多大なる寄与をされることは間違いない。またネットワーク学会でも機関誌発行の責任者もされており、こちらの活躍も楽しみである。
おそらく天性の人の良さとおおらかさが、難病の在宅ケアの推進や医局長という難しい調整を要する業務にも生かされたものと思われる
この受賞を、もっとも喜んだ者の一人が私だった。大窪先生とは長い付き合いがあり、そして個人的も大変お世話になってきたからである。
まずは平成4年頃だっただろうか、三内科医局からのローテイションで、2年ほど南九州病院の神経内科で働いてもらったことがある。この時に最も驚いたのが、パソコンに対する習熟の速さで、プログラムを瞬く間にマスターして自分ものにしたことである。IT音痴の私には、ただただ驚いてみているばかりだった。また看護師など他のメディカルスタッフを指導しながら、一緒に研究を進めていく姿勢に大いに好感を持ったものである。変わったところでは、当時は遊技のパチンコの全盛時代だったが、大窪先生の台にはいつも大きな箱が並んでいるという噂が耳に入った。こっそり聞いてみたら、「学生時代にパチンコ屋さんでバイトしていたときに、釘師からよくはいる台の特徴を教えてもらったんですよ」とさりげなく言われたことを覚えている。
またバイト病院として行っていた藤元病院では、都城地区のみならず宮崎県の難病のケア・システムの構築への貢献も特記されていい。そして仲間を育てながら、さまざまな学会に発表の機会をつくってあげているのも流石に大窪先生たるゆえんである。
私が南九州病院の外来で診ていたALSの患者さんに、柳田さんという女性がおられる。ご主人は宮崎県の教育界の重鎮として活躍されていたが、数年前に惜しまれながら亡くなられた。柳田さんご自身も水彩画を描いたり、自分史も執筆されるというような知的に非常に高い女性だった。「私は協調性がないから、集団生活は苦手なの。だからできるだけ自宅で療養したい」という願望を持っていて、ご主人が、そして現在は息子が介護している。私も何度か都城の自宅を訪ねたことがあるが、大窪先生はここでも私の後を引き継いで何かと面倒をみてくれている。今回、都城に活動の場を移すということで、もっとも喜ばれている一人だろう。
何と言っても私がもっともお世話になったのが、昨年11月に学会長として開催することになった日本難病医療ネットワーク学会である。自ら事務局長を申し出てくれて、その準備に全精力を傾けてくれた。準備委員会を13回も開催し、実に細かい部分まで細心の体制で臨んでくれた。いつも穏やかな笑顔で、いやな顔一つすることなく、懸案事項とも真正面から前向きに取り組んでくれた。ある意味では補佐役的な仕事になるが、このような人が支えてくれて学会も成功したものと思っている。
今後、藤元病院を中心にしながら、宮崎県の難病医療や在宅ケア・システムの構築に多大なる寄与をされることは間違いない。またネットワーク学会でも機関誌発行の責任者もされており、こちらの活躍も楽しみである。
おそらく天性の人の良さとおおらかさが、難病の在宅ケアの推進や医局長という難しい調整を要する業務にも生かされたものと思われる
