論文作成まで頑張ろう(2015/03/09)
山中弘子先生(厚地リハビリテーション病院)から論文の別刷りが、2本送られてきた。その一つは「脳卒中亜急性期の麻痺手の浮腫や痛みと皮膚温との関連~肩手症候群の病因~」というもので、今年の臨床神経学(神経学会機関誌)の一月号に掲載されたものである。臨床神経学は日本の神経学のジャーナルとしてはもっともレベルが高く、査読もしっかりしていて、市中の病院で働いている医師にとってアクセプトされるのは容易ではない。
同封されていた手紙に、「十数年前に肩手症候群が肩甲下筋損傷を原因とした後神経束の無髄神経障害であろうと思いついてから、文献検索機能の助けを借りながら、楽しく夢中に考えを巡らせました・・・」と書かれている。論文になるまでは困難を極めたようであるが、研究スタイルとしては臨床家の「鏡」である。日常の臨床で疑問に思ったことを何年もかけて臨床研究をつづけ問題点を解決し、そして論文まで仕上げるということはすごいことだと思う。
また同じ手紙に「昔、先生がおっしゃった『目の前にたくさんあるものを研究対象にする』というのは、こういうことなのだと実感しました。今後も夢中になれる課題が見つけられるようにアンテナを立てて行こうと思います」と書かれている。
山中先生とは南九州病院で働いていた時代、平成2年頃に2年ほど一緒に働いたことがある。まだ彼女は独身で厚地姓のころであったが、いい意味で「サプライズ」な女性で何度か驚かされた。丁度ALS患者向けの「食事のしおり」という小冊子を作っていた頃で、彼女は漫画が得意であることを知り、イラストを描いてもらった。「うまいねえ」と褒めると、「高校のころ、漫画部でしたから」という。どういういきさつで新聞の話になったのかは忘れたが、「私は新聞を読んだことはありません」と聞いてびっくりしたものである。私にとっては毎朝朝刊を読むことは一日の始まりという認識だったので、「世の中は広いなあ」と思ったものである。
またこの頃、夏に大型台風が襲来したことがあった。当時の南九州病院の官舎は古くて今にも倒れそうな建物だったので、「夕べはどうしたの」と聞いたら(当然、自宅に帰っていたのだろうと思っていたら)、「別にどう行くこともありませんでした」と平然としたものだった。厚地病院の一人娘だったので「親は心配されたのではないだろうか」と思ったが、親からも「安否を心配する」電話などなかったそうである。
またちょうどそのころ、神経学会の専門医試験を受けることになり、私は「ちょっと・・・」と期待半分、不安半分で結果を待っていた。当時の合格率は受験者の3,4割くらいではなかっただろうか。ところが予想を裏切って見事合格したので、「隕石が当たったようなものだね」と言うと、「本当に」と可愛らしく答えたことも思い出している。
人生は長いし、誰にも無限の可能性を秘めているものだと、あらためて思うことである。
同封されていた手紙に、「十数年前に肩手症候群が肩甲下筋損傷を原因とした後神経束の無髄神経障害であろうと思いついてから、文献検索機能の助けを借りながら、楽しく夢中に考えを巡らせました・・・」と書かれている。論文になるまでは困難を極めたようであるが、研究スタイルとしては臨床家の「鏡」である。日常の臨床で疑問に思ったことを何年もかけて臨床研究をつづけ問題点を解決し、そして論文まで仕上げるということはすごいことだと思う。
また同じ手紙に「昔、先生がおっしゃった『目の前にたくさんあるものを研究対象にする』というのは、こういうことなのだと実感しました。今後も夢中になれる課題が見つけられるようにアンテナを立てて行こうと思います」と書かれている。
山中先生とは南九州病院で働いていた時代、平成2年頃に2年ほど一緒に働いたことがある。まだ彼女は独身で厚地姓のころであったが、いい意味で「サプライズ」な女性で何度か驚かされた。丁度ALS患者向けの「食事のしおり」という小冊子を作っていた頃で、彼女は漫画が得意であることを知り、イラストを描いてもらった。「うまいねえ」と褒めると、「高校のころ、漫画部でしたから」という。どういういきさつで新聞の話になったのかは忘れたが、「私は新聞を読んだことはありません」と聞いてびっくりしたものである。私にとっては毎朝朝刊を読むことは一日の始まりという認識だったので、「世の中は広いなあ」と思ったものである。
またこの頃、夏に大型台風が襲来したことがあった。当時の南九州病院の官舎は古くて今にも倒れそうな建物だったので、「夕べはどうしたの」と聞いたら(当然、自宅に帰っていたのだろうと思っていたら)、「別にどう行くこともありませんでした」と平然としたものだった。厚地病院の一人娘だったので「親は心配されたのではないだろうか」と思ったが、親からも「安否を心配する」電話などなかったそうである。
またちょうどそのころ、神経学会の専門医試験を受けることになり、私は「ちょっと・・・」と期待半分、不安半分で結果を待っていた。当時の合格率は受験者の3,4割くらいではなかっただろうか。ところが予想を裏切って見事合格したので、「隕石が当たったようなものだね」と言うと、「本当に」と可愛らしく答えたことも思い出している。
人生は長いし、誰にも無限の可能性を秘めているものだと、あらためて思うことである。
