重症心身障碍児(者)病棟(前)(2015/04/06)
3月24日、南九州病院の重症心身障碍児(者)病棟の開棟式の案内をもらったので、義父と私の寄贈したそれぞれの桜の開花の様子も知りたくて出かけることにした。好天にも恵まれ、南風病院の近くのケーキ屋さんでお土産のチーズケーキを2個買って、昼過ぎに車で出かけた。30年余り、朝な夕なほとんど 一日も欠かさずに通った10号線であったが、久し振りに出かけるとなるとずいぶん遠くに感じられる。習慣とは恐ろしいものである。
さてこの重症児病棟の竣工は、私にとっては殊更感慨深いものがある。いくつかの紆余曲折を交えながら、やっと新築移転となった経緯がある。
私は平成10年4月に南九州病院の院長になったが、平成12年の霧島病院との統合を受けて、建物の増改築に着手した。霧島病院は現在の霧島市立医師会医療センターであるが、国立病音の統合の一環として、県内3つの国立病院(南九州、霧島、南九州中央)が2つに統合することになった。統合で消滅する霧島病院の職員は自由に病院を選べることになり、70人近くが南九州病院に異動することになった。現在の「鹿児島医療センター」への職員の異動は数人だけにすんだのに、整備予算は倍近くになり、南九州病院としては「割を食った」という被害者意識は長く消えなかった。異動してきた職員に罪はないが、余剰人員の解消には数年を要することとなった。
それでも南九州病院の整備に50億余りの予算が投じられたが、新築できたのは筋ジス病棟と緩和ケア棟、外来の一部のみで、後は全て増改築である。またその整備にはさまざまな制約があり、思い通りには運ばなかったのである。それでも当時の厚労省の担当者も、統合の負の果実(大量の職員を受け入れさせられた)にも気を遣ってくれて、できるだけ温かい配慮もしてくれたので、他の旧療養所に比べれば恵まれていたともいえる。
さて重症児病棟に関しては、当初の計画では養護学校を挟んで旧運動場跡に重症児病棟と筋ジス病棟を5階建で建設し、道を隔てた養護学校とは渡り廊下で結ぶ計画をたてた。ところが予算の制約もあり、筋ジス病棟のみが新築移転することになったのである。私は院長という立場と、また筋ジス病棟には深いかかわりがあったこともあって、重症児病棟の関係者には申し訳ない思いであった。「院長は筋ジス患者を優遇している」と思われたくなかったのである。そのため3つの重症児病棟の増改築にはできるだけの多額の予算をつぎ込んで、療養環境を少しでもいいものにするために意を注いだと思っている。
その後、平成16年に国立病院機構として独法化し、官庁会計から企業会計に移行した。それまでは建物の整備など国からどれだけ予算を獲得できるかが問題で、後の返済にはそれほどの心配をすることもなかった。まさに親方日の丸という訳である。ところが独立採算となると当初80億円余りの赤字を背負っての船出となり、収益の確保と支出の抑制を考えなければならなくなった。結果的には職員の協力のお陰で経営は順調に推移し、10年近くで赤字を半減し、20億円ほどの貯金もできたことになる。
その後、耐震化が社会の大きな注目となり、全国の老朽化していた重症児病棟の新築の問題が浮上した。南九州病院の場合、すでに多額のお金をつぎ込んで改築したばかりだったということもあって、私は耐震化と早急な新築に躊躇した。おまけに3つの重症児病棟はいずれも平屋であり、新築移転を急ぐ必要はないと判断していた。当時の機構の管理担当の理事とはいろいろ議論したが、機構が半額の補助をするという条件も提示された。それでも私は同意しなかったので、「地震が起きて、もしものことがあったら責任はとれますか」とも脅された。
ところが当時の矢崎理事長の手腕で国の耐震化対策を利用して多額の予算を獲得できて、重症児病棟の新築は国の全面的な補助(実際には病院の出し分も数億円はあったようだが)で実現することになったのである。
さてこの重症児病棟の竣工は、私にとっては殊更感慨深いものがある。いくつかの紆余曲折を交えながら、やっと新築移転となった経緯がある。
私は平成10年4月に南九州病院の院長になったが、平成12年の霧島病院との統合を受けて、建物の増改築に着手した。霧島病院は現在の霧島市立医師会医療センターであるが、国立病音の統合の一環として、県内3つの国立病院(南九州、霧島、南九州中央)が2つに統合することになった。統合で消滅する霧島病院の職員は自由に病院を選べることになり、70人近くが南九州病院に異動することになった。現在の「鹿児島医療センター」への職員の異動は数人だけにすんだのに、整備予算は倍近くになり、南九州病院としては「割を食った」という被害者意識は長く消えなかった。異動してきた職員に罪はないが、余剰人員の解消には数年を要することとなった。
それでも南九州病院の整備に50億余りの予算が投じられたが、新築できたのは筋ジス病棟と緩和ケア棟、外来の一部のみで、後は全て増改築である。またその整備にはさまざまな制約があり、思い通りには運ばなかったのである。それでも当時の厚労省の担当者も、統合の負の果実(大量の職員を受け入れさせられた)にも気を遣ってくれて、できるだけ温かい配慮もしてくれたので、他の旧療養所に比べれば恵まれていたともいえる。
さて重症児病棟に関しては、当初の計画では養護学校を挟んで旧運動場跡に重症児病棟と筋ジス病棟を5階建で建設し、道を隔てた養護学校とは渡り廊下で結ぶ計画をたてた。ところが予算の制約もあり、筋ジス病棟のみが新築移転することになったのである。私は院長という立場と、また筋ジス病棟には深いかかわりがあったこともあって、重症児病棟の関係者には申し訳ない思いであった。「院長は筋ジス患者を優遇している」と思われたくなかったのである。そのため3つの重症児病棟の増改築にはできるだけの多額の予算をつぎ込んで、療養環境を少しでもいいものにするために意を注いだと思っている。
その後、平成16年に国立病院機構として独法化し、官庁会計から企業会計に移行した。それまでは建物の整備など国からどれだけ予算を獲得できるかが問題で、後の返済にはそれほどの心配をすることもなかった。まさに親方日の丸という訳である。ところが独立採算となると当初80億円余りの赤字を背負っての船出となり、収益の確保と支出の抑制を考えなければならなくなった。結果的には職員の協力のお陰で経営は順調に推移し、10年近くで赤字を半減し、20億円ほどの貯金もできたことになる。
その後、耐震化が社会の大きな注目となり、全国の老朽化していた重症児病棟の新築の問題が浮上した。南九州病院の場合、すでに多額のお金をつぎ込んで改築したばかりだったということもあって、私は耐震化と早急な新築に躊躇した。おまけに3つの重症児病棟はいずれも平屋であり、新築移転を急ぐ必要はないと判断していた。当時の機構の管理担当の理事とはいろいろ議論したが、機構が半額の補助をするという条件も提示された。それでも私は同意しなかったので、「地震が起きて、もしものことがあったら責任はとれますか」とも脅された。
ところが当時の矢崎理事長の手腕で国の耐震化対策を利用して多額の予算を獲得できて、重症児病棟の新築は国の全面的な補助(実際には病院の出し分も数億円はあったようだが)で実現することになったのである。
