Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

養護学校の先生方(後)(2015/05/26) 

丁度、一月ほど前になるが、4月25日、土曜日のお昼前、私は拙著の「難病とのながい道」と南風病院のパンフレット、健康講話用のレジメを袋に入れて、会場となっている天文館の「いちにいさん」に出かけた。開始時間の15分ほど前に着いたが、もう懐かしい先生方が数人店の前で待っておられる。
 当日、久保先生は「加治木養護学校を懐かしむ会」という小冊子まで用意され、準備万端である。その冊子には、出席者名簿、養護学校の校歌、添えられた何枚かの写真も懐かしい。
 その「後記」には次のように書かれている。
 大参先生とプールサイド(セイカスポーツのジム)で良和君やさほりさん(当時の重症児病棟の生徒さん)のことを話していたら、加治木養護学校時代が無性に懐かしくなりました。ところが皆さんと20年近くほとんど連絡を取っていない状況でしたので不安でしたが、皆さんのご協力で開催にこぎつけられ、有難く感謝しております。・・・。退職後の悠々自適の方は勿論、現役で新学期の忙しい時期にもかかわらず、時間をねん出して駆けつけてくださり本当にありがとうございます。これからの人生、ささやかな幸せに感謝し、一日一日を大切に過ごして生きたいと思います。・・・
 三々五々、17人のOBが集まり、12時前に開宴となった。私は開会のあいさつの後10分ほど時間をもらって、「毎日歩きましょう」などの健康講話と病院のPRなどさせてもらった。その後、乾杯ののち、出席された一人ひとりの先生方から近況報告や当時の秘話なども披露してもらいながら挨拶をしてもらったが、これが実に面白かった。さすがに学校の先生方である。
 とりわけ82歳だという徳田先生の波乱万丈のお話を興味深く聴いた。在職時、先生が三味線でよく歌っているのを聞いたことを覚えているが、その由来を初めて聞くことができた。
 先生は昭和8年に与論島で生まれたが、戦後島がアメリカの統治下に置かれると聞いて、家族みんなで大隅半島の田代の山の中の開拓村に入植した。食べるものがなく、サツマイモの蔓を食べて命をつないだということである。艱難辛苦の生活で中学を卒業して、鹿児島市で仕事に就いた。3年ほど働いていたときに、中学校で自分よりはるかに成績の悪かった同級生が高校に通っていた。悔しくなって、福岡に移り住むことになる。戦後の就職難のころで新聞配達で食をつないでいたら、とある篤志家との出会いがあり、いろいろな援助をもらって夜間の高校と大学まで終えることができた。
 その後、ある縁で鹿児島の小学校の教職に就くことができた。公開授業の時、当時ローマ字教育は片手間の時間しかとらないのが普通だったが、全ての時間をローマ字の授業にしたら、視察に来られていた偉い人に中学の英語の先生に引っ張られた。そんなことがあって、養護学校の中等部で英語の先生をすることになった。
 現在は若いころにお世話になった方々を探し出して、お礼の行脚の旅を続けている。また、鹿児島港にクルーズ船が入港した時に、おもてなしたいとして得意の三味線を観光客の前で披露されておられるという。
 久保先生の用意された余興など楽しんだのち、校歌斉唱ののち、万歳三唱で名残を惜しみながら3時前にこの「懐かしむ会」は再会を誓ってお開きとなった。
 (あとがき)
 自分を数に入れずに、本を17冊持って行ったので、一冊余り、その一冊を「丸山先生に差し上げました」というメールを久保先生から頂いた。数日して丸山先生から丁寧なお手紙を頂いたが、久保先生は丸山先生が主宰していられる「火の鳥俳句会」の会員だということである。お手紙によると先生は当院の理事長の貞方さんと鶴丸高校の31R(ルーム)で同級生で中学校も私と同じ城西中学出身ということ、また上野晶子さんのご両親とは俳句など通して親しいということで、鹿児島は「狭い」と改めて感じた次第である。