Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

ハナミズキ(2015/05/11) 

おそらくは最後になると思ふ 恋伝えられない現実があり
 一昨年、筋ジストロフィーという病で亡くなった日高君の遺した最後の恋歌の一つである。それぞれの人生には、ほろ苦い恋もあるものである。
 さてこのハナミズキは、1912年に当時の東京市長であった尾崎行雄がアメリカ合衆国ワシントンD.C.へサクラ(ソメイヨシノ)を贈った際に、その返礼として1915年に日本に贈られたのが始まりといわれている。桜が散ったのち、4月末から5月初旬ごろ花をつける。
 私とYさんとの初めての出会いは、50年ほど前の学生サークル、社会医学研究会に遡る。彼女は私より2歳ほど年下の看護学生だったが、生まれが私と同じ町ということもあり親近感を持ってくれていたことを後で知った。彼女にとっては、青春の淡くほろ苦い一ページだったのかも知れない。
 二度目の出会いは、30年ほど前に救急車の中だった。当時、南九州病院の小児科医として大学から派遣されていたY先生が看護学校で授業中に頭部の激痛に見舞われた。南九州病院に搬送されCTでくも膜下出血とわかり、鹿児島市立病院に搬送することになった。私が付き添うことになり救急車に乗り込むと、なんとそこにはYさんがいたのである。私はYさんが、Y先生の奥さんであるということはそれまで知らなかった。市立病院で手術を受けたが術後に悪いことが重なり、結果的には36歳という若さで亡くなられた。葬儀の席で、当時まだ小学生だった二人の子どもを抱えたYさんを、言葉には表せないほど痛ましく感じたことを覚えている。
 三度目の出会いは十数年前、Y子さんから「子供たちが成人した思い出に、アメリカハナミズキを寄贈したい」という申し出があった。そこで南九州病院の正門の横に2本植えて頂いたが、ハナミズキはつがいで植えるのだということをはじめて知った。
 四度目の出会いは、10年ほど前のことである。健診で胃がん、それも進行したスキルスが発見され、余命半年だと告げられたということで、友人と南九州病院の緩和ケア棟を見学に来られた。しかし結果的には入院しなかった。
 五度目の出会いは亡くなられる2ヶ月ほど前に、今村病院に見舞いに行ったときである。凄まじい副作用と闘いながら化学療法を何度も受けて、その都度奇跡的とも思える回復を得ていたが、病気には勝てず見るからに苦しそうだった。しばらくして、ご自宅で子供たちに見守られながら亡くなられたとの報告を受けた。
 亡くなるほぼ同じ時期に「家族の愛にありがとう。友らの思いやりにありがとう。精一杯の人生に悔いはなし」というタイトルの遺稿集が発刊された。「終わりに」には、「悲しまないでください。寂しく思わないでください。私はいつまでも、みんなの心の中に生き続けていると思ってますから」と書かれていた。死と真正面から向き合い、最期まで精一杯生きた女性だった。
 その後毎年、Yさんの「ハナミズキ」は花をつけていた。花を見るたびに、いろいろな思い出が蘇ってきたものである。
花水木