Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

美山(2015/06/26) 

長尾先生(名古屋大学教授)が鹿児島県看護協会の招きで「医療安全」の講義に来られたのを機会に、県看護協会副会長の田畑さんと美山の沈寿官窯を案内することにした。長尾先生はお父上が彫刻の分野では有名な人で芸術院会員であり、長尾さんご自身も焼物に対する関心と鑑識眼を持っていることを知っていたからである。私の定年を東京駅のレストランで祝ってくれた嶋森組の祝賀会では「この益子焼は骨董屋で求めましたが、偽物ではありません」との言葉を添えて、お椀を頂いたこともある。私は沈寿官窯を訪ねるのは二回目で、この時と同様に弟のツーリング仲間でこの窯の職員である児玉さんを紹介してもらえて、詳しい説明を受けることができた。
 天気も梅雨の時期にしては薄曇りで、南九州自動車道を美山インターで降りると、数分で目的地に着いた。壮麗な門をくぐり庭木などもきれいに整備された窯元に着くと、児玉さんが待ってくれていた。その後、児玉さんの案内で沈家伝世品収蔵庫、登り窯、工房、そして展示館と売店の順序で、丁寧な案内を受けることができた。児玉さんはご自身も陶工の一人だということだったが、薩摩焼の歴史から時代背景など豊富な知識があり、よどみなく説明を加えてくれた。
 薩摩焼は秀吉の朝鮮出兵の時に薩摩藩の島津義弘が、朝鮮半島からさまざまな技術者たち(製陶、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等)と一緒に80人の陶工を連れてきたのがルーツであるというのは有名な話である。この頃、千利休により器の価値が法外なものとなり、特に朝鮮半島からの陶磁器は重宝がられていた。全国の諸藩も薩摩藩と同様に陶工を連れてきたが、薩摩藩はこの美山に「朝鮮村」として隔離させた。そして士分を与え、門を構え、塀をめぐらす事を許すかわりに、その姓を変えることを禁じ、また言葉や習俗も朝鮮のそれを維持する様に命じる独特の統治システムを創った。薩摩藩は東南アジアとの交易のために、通詞などとしても重用したのである。
 沈家はその中でも中心的な家で、島津藩の参勤交代では最初の本陣が置かれた。江戸時代につくられたという家と庭も見せてもらったが、派手さはないが立派な佇まいである。沈家は現在15代が継いでいるが、江戸から明治にかけてのフランス万博にも出品した天才といわれた12代の活躍が目覚ましい。また司馬遼太郎が「街道を行く」や「故郷忘じが たく候」という作品で取り上げたということもあって14代が有名である。昨年訪れた時には売店でお見かけしたが、俗にいうところの「やり手」で毀誉褒貶の多い人物とお見受けする。
 沈家伝世品収蔵庫は2011年4月17日にリニューアルオープンしたというが、 初代から15代までの歴代の作品が展示され、沈家に残る貴重な古文書や図案等も紹介されている。
 そのあと、古い時代の煉瓦が積み上げられた登窯を案内された。温度の調整や赤松の調達が難しくなってきているので、実際にこの登窯を使うのは11月の窯元祭りの前など2,3回であるという。ある意味では時代の象徴として、観光用なのかも知れない。
 工房では30人近くの工員が、公務員と同様に8時から17時まで働いているという。全国各地から来られた人で、若い人が多いようだ。完全な分業制で、土作りから、ろくろ、釉薬、絵付け、透かし彫りなどそれぞれの工程を担っている。
 売店では長尾さんも田畑さんもいくつかの品を求めてくれて、児玉さんも喜んでくれた。