Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

日本ALS協会鹿児島県支部総会(前)(2015/06/23) 

今年で12回目になるという「日本ALS協会鹿児島県支部総会」が6月7日に、南九州病院の大会議室で開催された。第1回の設立総会は九州新幹線が鹿児島中央駅から新八代まで部分開通した年(2004年)の翌日に、鹿児島大学の鶴陵会館で開催され、全国から多くのALS協会関係者が出席してくれたことを思い出す。あの時からちょうど干支の一巡り、12年が経ったことになる。一度も崩壊の危機に立たずに順調に続けて来れたのは、里中さんを中心にして遺族を含めた運営委員の方々のたゆまぬ努力の賜である。毎年欠けることなく出席してくれている。
 この日、私は開催時刻の1時間ほど前に病院に着いたので、懐かしき筋ジス病棟をいつものように歩き回った。丁度お昼の食事の時間帯だったので、食堂を一巡したのち親しくしていた患者さんのベッドを回った。日曜日ということで、松本さんや今村さんなど、お父さんやお母さんも見舞いに来ておられた。悦子の対面の窓側のベッドは東条さんのベッドだったが、誰もいない。その訳を尋ねると、東条さんの状態が思わしくなくて観察室に移動しているということだった。早速観察室に行って呼びかけたが返事はなく、苦しそうで話もできなかった(数日後、亡くなられたという知らせが届いた。あまり目立たない女性だったが、私が行くと、いつもニコッと笑ってくれた。手に持った小さな棒で用を足していたが、バレンタインのチョコはいつも届けてくれていた。キーホルダーの収集が趣味で、ベッドには何十個もぶら下げていた。私も東条さんへのお土産はいつもキーホルダーと決めていた。ご冥福を祈りたい)。
 そのあと、たまたま加治木養護学校の春の大運動会が開催されていたので立ち寄った。全種目が昼で終わるそうで、昔の盛大な運動会に比べれば、規模も小さくなっているようである。「私たちの頃は生徒や親はもちろん、病棟の職員もほぼ総出で参加していました。やっている我々は血の気も多く勝敗にこだわってやってました。それだけに盛り上がって楽しかったものです」とは、当時のことをよく知っている山田君(現在入院中)からのメールである。
 玄関を入ったところで、たまたま堂免校長に出会った。堂免先生は若いころに加治木養護学校の先生として働いておられて、筋ジス病棟の若い看護師さんと結婚した。「うちの家内が2番目に可愛くて・・・一番目は何といっても前山さんでしたね」と冗談を言われるが、「前山さんが一番」というのは患者さんを含めて衆目の一致するところであった。その前山さんも結婚式では私は断腸の思いで乾杯を仕切ったが、現在は二人の子供のお母さんになっている。
 校長室に山之内先生を呼ばれて談笑した後、保健室で大迫さんや瀬戸口さんなど南九州病院看護師のOBとも久しぶりに会うことができた。先日の新聞では、「鳥取県立鳥取養護学校(鳥取市)で、医療的ケアを担う看護師が不在になり、ケアの必要な児童生徒9人が通学できなくなっている」とのこと、加治木養護学校では南九州病院のOBが浜崎さん以来、ずっと受け継いでいてくれている。
 日本ALS協会鹿児島県支部総会(中)
 支部総会は午後1時より始まり、大窪先生の記念講演「ALS診療の今と未来」に引き続いて「患者・家族の交流会」という予定になっていた。
 大窪先生の講演の内容は、日本難病医療ネットワーク学会、鹿児島市の難病ネットワーク、ALSの今、ALSの未来についてであったが、わかりやすくよくまとめられていた。私が会長をした昨年の難病医療ネットワーク学会の時には、大窪先生に事務局長をお願いしたが、彼なしには大会のスムースな運営はできなかっただろう。鶴丸高校の「For Others」の精神そのものである。この4月から都城の藤元病院に異動となったので、鹿児島県の難病医療にとっては大きな損失である。メディカルスタッフとの細やかな連携や患者さんとの「いい関係」の構築など、彼の右に出る者はいない。
 交流会は里中事務局長のいつもながらの軽妙な的をよく射た司会で、内容の濃いものになった。患者さんや家族に現在の療養状況や思いを語ってくれるように指名していかれるが、かねての日常活動の繋がりや相談を真剣に受け止めておられるので、このような「芸当」ができるのだろう。この日は彼女の誕生日だということだったが、ここ十数年、ぶれることなくALS協会鹿児島県支部を率いて来られている。全国の各支部の活動状況をみる時、本人が先頭に立って汗をかく姿に、みんなが協力を惜しまないのだろう。鹿児島県の場合も、運営委員の中には遺族という人が多い。患者会でこれほどまで多くの方が遺族として関わりを持ってくれるというのは、いつも思うことだが不思議な患者会である。介護の厳しさと、そして「喜び」もよく知っているので、亡き後まで関わってくれるのだと思う。
 その会での、患者さん及び家族の発言の中で、印象に残ったものを紹介したい。
 ・まず、種子島からわざわざ来られた〇下さんの奥さんが指名された。この方は私が昨年、種子島での難病相談・支援センターでの在宅訪問した男性の奥さんである。この日は自宅の隣に住んでおられる看護師のお姉さんも同行されていた。「主人はまだ42歳で、中学生の息子が野球を娘がバレー、弟は相撲の選手です。姉もサポートしてくれますので、子供たちの成長をみながら一緒に頑張りたいと思います」と笑顔で挨拶された。「先生、まだたくさんローンが残っているから頑張らないと」と、昨年まだ真新しい家の前で話されたことを思い出した。おそらくいく晩も泣き明かしたと思われるが、現在はいつも笑顔である。種子島にはALSの患者さんが多いので、鹿児島県支部の支部をつくりたいと前向きな発言をされていた。
 ・竹○さんは大隅半島の錦江町から、名前にちなんで命名したという「Fチーム」のメンバー11人(子どもさんたち4人を含めて、竹○を日頃支えているさまざまな職種で構成)でやってきたという。ALSで現在は胃瘻と人工呼吸器を着けている。低酸素脳症の後遺症で意思伝達はできない。奥さんは「今日はここまで来れるかどうか不安でしたが、無事この会に参加できてうれしいです。生きることを選んでくれて、何も言えない主人ですが、多くの方といろんな関わり合いができて、感動や喜びを頂いております」と話された。リーダーの今隈先生は私の2級後輩であるが、「長いこと故郷で、地域医療と取り組んできました。30年ほど前には福永先生と一緒にこの病院で、ピンクレディーのUFOを踊りました。竹○さんの場合、私たちを動かしている原動力は家族の熱意と気持ちです。早く、いい治療法を、田舎でも受けられるように国にはお願いしいと思います」と結んだ。
 また同行された医師会病院のケアマネの人は「Fチームでは、AKBにちなんで、今回は誰がセンター(リーダー)をとるか、いつも争いがあるんですよ」と冗談も交えて話された。