甲突川(2015/06/09)
鹿児島に暮らす(暮らしたことのある)人は、甲突川にはさまざまな郷愁や哀歓を覚えるようだ。
この文言は俳句雑誌「火の島」の巻頭言の文頭に、発行人の丸山真さんが寄せたものである。当院理事長の貞方さんと丸山さんとは鶴丸高校の同級生だったということで、この「火の島」を届けてくれた。
ところで甲突川は鹿児島市郡山町にそびえる八重山中腹の甲突池から発し、南東に流れ、鹿児島市街地を南北に分けながら錦江湾に注いでいる。幕末まではこの甲突川には、五石橋以外には橋はなかったということになる。1993年(平成5年)8月6日の鹿児島大水害(8・6水害)によって、江戸時代に架けられた五石橋として有名だった新上橋と武之橋が流出し、残りの3橋は石橋公園に移設保存された。
この巻頭言では「河畔の風趣」を詠んだ秀句を幾つも挙げているが、その一つに「ゆるやかに街を二分して春の川(入部すみ子)」という句を取り上げている。そして「甲突川を境に右側の流域と左側の流域では、遠く時代を遡ると暮らしの風景に大きな違いがあったし、その後も生活感覚には微妙な違いを感じることがあった」と述べておられる。
小学校のころから甲突川を「私たちの川」感覚で育ったものの一人として、丸山先生と同じ感慨を持っている。河原で遊んだり、コイなどの魚を捕って遊んだこともあった。小さいころは世間知らずで「大きな川」だと思っていたが、長じるに各地の川を見るに及んで、川幅も狭くちっぽけな川であることに気付いた。
丸山さんは城西中学校、鶴丸高校と私の先輩だったということを最近知ったが、「川を渡った先には賑やかな通りがあり、さらにその先には城跡や天文館があり、『街』があった」とも述べておられる。
私は小学校5年の時、父の仕事の都合で生まれ育った頴娃町から、原良小学校に転校して来た。城西中学は実業高校を挟んで甲突川河畔に位置していたので、友達の家に行く時などよくこの川に架かる橋を通っていた。また私が入学した時の鶴丸高校は甲突川の左岸に位置していたが、2年生の時に右岸の現在の場所に移転した。当時、机などの荷物は甲突川を利用して上流に運んだのではなかっただろうか。
「街」感覚に関しても、私も丸山さんと同じ感慨を持っており、原良本通りを抜けて甲突川に架かっていた新上橋を渡ると電車が通っており、街に来たというワクワクした気分になったものである。同時に、ちょっと自分の肌感覚と異なる違和感を抱いたような気もする。ものの本によると、鶴丸城築城にあたって甲突川は外堀と位置付けられていたようで、昔から川の右岸はおはら節にも歌われているように、原良の田んぼの拡がる「田舎」だったのである。私の小学校時代には、まだ田んぼがたくさん残っていた。ところが現在では、左岸にある鹿児島駅より右岸の鹿児島中央駅周辺が都市化し、大学も高校も右岸に多く、また鹿児島市立病院も左岸から右岸に移ってしまった。特に理由もないのだが、私は社会人になってからの住まいはずっと左岸になっている。ちなみに郵便番号も、甲突川の右岸は890で左岸は892である。
甲突川と聞いて市内に住んでいる人がまず思い出すのは、あの8/6大水害ではないだろうか。22年が経った今でもその話になると、昨日のことのように、「あの時はどこにいて、どうした」という話で盛り上がる。
私はその年まで一度も取ったこともなかった夏季休暇を取り、藺牟田池に双方の親も一緒に宿泊していた。当時は南九州病院に在職中で、いつも国道10号線を車で通勤していたので、もし休暇を照っていなかったら、竜ヶ水での大惨事に巻き込まれた可能性もないとはいえない。翌朝はどうしても市内まで帰らなければならなかったので、3号線を帰ったが、いつもは静かに流れる甲突川が、川岸は至る所でえぐり取られ、目を覆いたくなる惨状に変貌していた。以降、川幅を広げ川底を深くしたり、また堤防の強化に努めて今は安全な流れになっている。ただ昨今の異常気象などによる局地的な集中豪雨を考えると、いつまでも安全ということはないだろう。
この文言は俳句雑誌「火の島」の巻頭言の文頭に、発行人の丸山真さんが寄せたものである。当院理事長の貞方さんと丸山さんとは鶴丸高校の同級生だったということで、この「火の島」を届けてくれた。
ところで甲突川は鹿児島市郡山町にそびえる八重山中腹の甲突池から発し、南東に流れ、鹿児島市街地を南北に分けながら錦江湾に注いでいる。幕末まではこの甲突川には、五石橋以外には橋はなかったということになる。1993年(平成5年)8月6日の鹿児島大水害(8・6水害)によって、江戸時代に架けられた五石橋として有名だった新上橋と武之橋が流出し、残りの3橋は石橋公園に移設保存された。
この巻頭言では「河畔の風趣」を詠んだ秀句を幾つも挙げているが、その一つに「ゆるやかに街を二分して春の川(入部すみ子)」という句を取り上げている。そして「甲突川を境に右側の流域と左側の流域では、遠く時代を遡ると暮らしの風景に大きな違いがあったし、その後も生活感覚には微妙な違いを感じることがあった」と述べておられる。
小学校のころから甲突川を「私たちの川」感覚で育ったものの一人として、丸山先生と同じ感慨を持っている。河原で遊んだり、コイなどの魚を捕って遊んだこともあった。小さいころは世間知らずで「大きな川」だと思っていたが、長じるに各地の川を見るに及んで、川幅も狭くちっぽけな川であることに気付いた。
丸山さんは城西中学校、鶴丸高校と私の先輩だったということを最近知ったが、「川を渡った先には賑やかな通りがあり、さらにその先には城跡や天文館があり、『街』があった」とも述べておられる。
私は小学校5年の時、父の仕事の都合で生まれ育った頴娃町から、原良小学校に転校して来た。城西中学は実業高校を挟んで甲突川河畔に位置していたので、友達の家に行く時などよくこの川に架かる橋を通っていた。また私が入学した時の鶴丸高校は甲突川の左岸に位置していたが、2年生の時に右岸の現在の場所に移転した。当時、机などの荷物は甲突川を利用して上流に運んだのではなかっただろうか。
「街」感覚に関しても、私も丸山さんと同じ感慨を持っており、原良本通りを抜けて甲突川に架かっていた新上橋を渡ると電車が通っており、街に来たというワクワクした気分になったものである。同時に、ちょっと自分の肌感覚と異なる違和感を抱いたような気もする。ものの本によると、鶴丸城築城にあたって甲突川は外堀と位置付けられていたようで、昔から川の右岸はおはら節にも歌われているように、原良の田んぼの拡がる「田舎」だったのである。私の小学校時代には、まだ田んぼがたくさん残っていた。ところが現在では、左岸にある鹿児島駅より右岸の鹿児島中央駅周辺が都市化し、大学も高校も右岸に多く、また鹿児島市立病院も左岸から右岸に移ってしまった。特に理由もないのだが、私は社会人になってからの住まいはずっと左岸になっている。ちなみに郵便番号も、甲突川の右岸は890で左岸は892である。
甲突川と聞いて市内に住んでいる人がまず思い出すのは、あの8/6大水害ではないだろうか。22年が経った今でもその話になると、昨日のことのように、「あの時はどこにいて、どうした」という話で盛り上がる。
私はその年まで一度も取ったこともなかった夏季休暇を取り、藺牟田池に双方の親も一緒に宿泊していた。当時は南九州病院に在職中で、いつも国道10号線を車で通勤していたので、もし休暇を照っていなかったら、竜ヶ水での大惨事に巻き込まれた可能性もないとはいえない。翌朝はどうしても市内まで帰らなければならなかったので、3号線を帰ったが、いつもは静かに流れる甲突川が、川岸は至る所でえぐり取られ、目を覆いたくなる惨状に変貌していた。以降、川幅を広げ川底を深くしたり、また堤防の強化に努めて今は安全な流れになっている。ただ昨今の異常気象などによる局地的な集中豪雨を考えると、いつまでも安全ということはないだろう。
