Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

再びの越後路(3)~佐渡島~(2015/06/03) 

新潟県というと多くの鹿児島県人にとっては、「田中角栄」と「越乃寒梅」、そして「トキ」くらいが有名なところである(私は個人的には良寛を付け加えたいが)。ただ新潟市は人口80万人を数える日本海側では最大の都市で、政令都市にもなっている。そして広大な越後平野の恵みや、歴史的にも北前船などの寄港もあり、経済的に豊かな土地ではないかと今回の旅で感じたことである。
 その一つが「古町」に代表される古い町並みで、その昔お大尽と呼ばれた人たちが遊んだであろう粋な料亭などがまだ幾つも残されている。ものの本によると、かつては日本有数の遊郭で、江戸時代初期に書かれた『遊里遊郭番付表』では、京都・大坂・江戸の三都に次ぐ番付であった。やがて、市内の堀が整備され新潟港に北前船が寄港するようになると一帯は更に発展を遂げた。十返舎一九による『東海道中膝栗毛』の中では「新潟越後じゃあんめいし、八百よこせとすさまじい」と書かれている。
 それに引き替え、鹿児島市は島津77万石の城下町で歴史は古いのだが、花街や料亭などは今は一つも残されていない。財力の差なのか、遊びを尊ぶ粋な文化人が少なかったのだろうか。
 今回の学会の会長招宴ディナーの開かれた「行形亭(いきなりや)」など、その格式の高さにびっくりした。これもものの本から抜粋したものだが、「行形亭の創業は江戸時代中期の元禄の頃と言われ、三百年近くの歴史を持つ、純日本料理店でございます。屋号にはエピソードがありまして、中興の主人が、まるで芝居の大石由良之助のような粋な人であったため、それまでの屋号「浦島屋」を誰言うとはなく「いきなりや」とあだ名して呼ぶようになったということです。昭和の46年ころまでは、お隣に監獄所がありまして、そこを「地獄」、華やかな酒宴が毎夜繰り広げられる当亭を「極楽」になぞらえて、間にある通りを、「地獄極楽小路」と呼ばれるようになりました」とある。
 私も名誉理事ということで招待されたが、「新潟古町芸妓」の踊りなど、しばし時代を忘れさせるものがあった。
 次に佐渡島紀行に触れてみたい。特筆?すべきこととして、観光施設の売店であの「ジュンキンスさん」と、田んぼでドジョウをつついでいる「トキ」を観光バスの中から見ることができたことである。
 佐渡へは新潟港から、ジェットフォイルという高速船で約1時間の船旅で両津港に着いた。屋久島へのトッピーと同じ構造であるが、トッピーよりやや大きく、この日は波も静かで快適だった。ところで佐渡島はその昔、順徳天皇や世阿弥、日蓮が流された島で、あの安寿と厨子王の安寿伝説の島である。人口は58,047人で、面積は日本の島の中で沖縄本島に次ぐ。1000メートルを超える山もあり、まだ残雪が残っていた。
 両津港に着いた後、観光バスで佐渡金山、尖閣湾揚島遊園、佐渡歴史伝説官、ゴールドパークで砂金探り体験、最後にトキの森公園などをあわただしく巡った。このようなスタイルの観光地巡りは久しぶりだったが、ベテランのバスガイドさんの案内は臨機応変で、流石に「餅は餅屋」と思わせるものがあった。歴史伝説官の一角の土産物店ではあのジェンキンスさんが焼き菓子の包装などを行っており、ミーちゃん状態で一緒にカメラに収まってもらった。
 砂金探り体験では、かねての「歩く」習慣の成果で腰痛とはおさらばと思っていたのに中腰のため腰が痛くなり、途中で投げ出してしまった。私の前の広瀬先生など「大きな金をすくった」とはしゃいでいたが、察するに地引き網で漁師さんが網の中に魚を入れてくれるのと同じように小さな砂金をそっと撒いているのではないだろうか。砂金探りの横には、その砂金でペンダントの加工を行う売店もちゃんと用意されていた。
 トキについて少し触れるが、大きなゲージで休んでいる時を見ると、思いの外小振りなのに驚いた。用意されたパンフレットによると、学名はニッポニア・ニッポンでかっては鹿児島も含めて日本各地に生息していたとのことである。ペリカン目ということだが、確かに小型のペリカンという感じで、よく似ている。繁殖が成功し、野生のものと飼育されているものを合わせると現在約1000羽にまで回復しているという。野生化しているトキを目にすることはそれほど多くないらしいが、帰りのバスの中で運転手さんが目ざとく水田の中に見つけてくれた。しばしバスを停め、みんなでバスの中から眺めることだった。