竹下夢二が描いたような女性?!(2015/07/29)
歳をとるにつれ、人の名前が思い出せなくなっている。枝葉末節のどうでもよさそうな事柄はよく覚えているのに、肝心の固有名詞がどうしても出てこない。ところが不思議なことに「ひょんな」拍子で、姓名ともきちんと思い出す瞬間がある。信じられないことかも知れないが半世紀近く前に、ほんの短い間でも私の心を揺るがし、ほのぼのとした恋心を抱かせてくれた女性(ひと)の名前を、これがどうしても出てこなかったのである。この事実をその女性が知ることになったら、「失礼千万な、お方」とお叱りを受けるかも知れない。
ところが先日、昔の社会医学研究会の仲間たちと一緒に飲んで、割烹の玄関を出てしばらくして「ひょい」と名前が浮かんできたのである。最後に会ったのは、確か私が都立府中病院に赴任した年だから、ちょうど41年前ということになる。以降、消息は全くないので、今頃どこでどのような生活を送っているのだろうかとちょっと気になる。
大学の6年間は私の10代後半から20代前半にあたるわけで、まさに青春時代ともいえる。その6年間、社会医学研究会で活動していたので、思いを寄せていた女性も当然その関係者ということになる。私はプロの作家でもないし私的な事柄を公にする気持ちはないのだが、このまま書き続ける愚かさにちょっと付き合ってもらいたい。
その「ひょい」と思い出した女性の名前は森京子さんという人で、昭和44,5年頃、保健婦学校の学生であり、社会医学研究会にも参加していた。控えめでそれでいて凛とした感じを持つ、竹下夢二の世界を彷彿させそうな雰囲気を持った女性だったような気がする。わかっている確かな情報としては、島根県の浜田高校の卒業生というだけで、もちろん家庭の状況も、なぜ鹿児島の学校に進学したのかも聞いていない。
卒業してしばらくしてから、長野県塩尻市の保健師として働いていることを知った。当時塩尻市は日本で初めて共産党市長が誕生したということで有名になっていたので、思想的なこともあったのだろうか。私が府中病院に赴任したのは昭和49年6月であり、塩尻市を訪ねた時には、コスモスの花が風に揺られていたように記憶しており、初秋だったのだろう。どういういきさつで訪れることになったのかもよく覚えていないが、メールもない時代であり電話で連絡したのだろうか。
「明日私は 旅に出ます あなたの知らないひととふたりで いつかあなたと 行くはずだった 春まだ浅い 信濃路へ」の歌詞で有名な狩人の歌は昭和52年の発売なので、この歌に影響されて旅立ったわけではなさそうである。
新宿から中央本線に乗って約2時間半、塩尻駅で降りて市役所を訪ねて会ったように記憶している。そのあと、眼下に諏訪湖の見えるレストランで食事をとった。しばらく散策した後、何事もなく淡々と、また中央本線で戻ったような気がする。今だったら少しはましな「演出」もできただろうにと悔やまれるが、後悔してもやんごとなきことになる。
齢は誰しも平等に重ねていくので、私と同年齢かあるいは一つ下だったその女性も、もし再会するチャンスがあったとしても、竹下夢二の世界からは大きな変貌を遂げているだろう。やはりこのようなことは、私の夢の世界にだけそっと仕舞っておいた方がよさそうである。
ところが先日、昔の社会医学研究会の仲間たちと一緒に飲んで、割烹の玄関を出てしばらくして「ひょい」と名前が浮かんできたのである。最後に会ったのは、確か私が都立府中病院に赴任した年だから、ちょうど41年前ということになる。以降、消息は全くないので、今頃どこでどのような生活を送っているのだろうかとちょっと気になる。
大学の6年間は私の10代後半から20代前半にあたるわけで、まさに青春時代ともいえる。その6年間、社会医学研究会で活動していたので、思いを寄せていた女性も当然その関係者ということになる。私はプロの作家でもないし私的な事柄を公にする気持ちはないのだが、このまま書き続ける愚かさにちょっと付き合ってもらいたい。
その「ひょい」と思い出した女性の名前は森京子さんという人で、昭和44,5年頃、保健婦学校の学生であり、社会医学研究会にも参加していた。控えめでそれでいて凛とした感じを持つ、竹下夢二の世界を彷彿させそうな雰囲気を持った女性だったような気がする。わかっている確かな情報としては、島根県の浜田高校の卒業生というだけで、もちろん家庭の状況も、なぜ鹿児島の学校に進学したのかも聞いていない。
卒業してしばらくしてから、長野県塩尻市の保健師として働いていることを知った。当時塩尻市は日本で初めて共産党市長が誕生したということで有名になっていたので、思想的なこともあったのだろうか。私が府中病院に赴任したのは昭和49年6月であり、塩尻市を訪ねた時には、コスモスの花が風に揺られていたように記憶しており、初秋だったのだろう。どういういきさつで訪れることになったのかもよく覚えていないが、メールもない時代であり電話で連絡したのだろうか。
「明日私は 旅に出ます あなたの知らないひととふたりで いつかあなたと 行くはずだった 春まだ浅い 信濃路へ」の歌詞で有名な狩人の歌は昭和52年の発売なので、この歌に影響されて旅立ったわけではなさそうである。
新宿から中央本線に乗って約2時間半、塩尻駅で降りて市役所を訪ねて会ったように記憶している。そのあと、眼下に諏訪湖の見えるレストランで食事をとった。しばらく散策した後、何事もなく淡々と、また中央本線で戻ったような気がする。今だったら少しはましな「演出」もできただろうにと悔やまれるが、後悔してもやんごとなきことになる。
齢は誰しも平等に重ねていくので、私と同年齢かあるいは一つ下だったその女性も、もし再会するチャンスがあったとしても、竹下夢二の世界からは大きな変貌を遂げているだろう。やはりこのようなことは、私の夢の世界にだけそっと仕舞っておいた方がよさそうである。
