社会医学研究会(2015/07/23)
社会医学研究会、俗称「しゃいけん」は私が大学時代の6年間、ずっと活動していた文化系のサークルである。検索した現在のホームページによると、「我等がしゃいけんは、1966年(昭和41年)から続く、息の長いサークルです」とあるから、正式な発足は私が大学に入学した年ということになる。
当時は、昭和39年に東京オリンピックがあり、日本が高度経済成長をまっしぐらに走っていた時代だったが、一方では安保反対やベトナム反戦運動、学費値上げ反対などと連動した学生運動も活発で騒然とした時代でもあった。社会医学研究会は政治運動とは一線を画していたが、多少とも当時の社会情勢に目覚めた人も多く、結構真面目に政治や医療を論じていた。先輩から、よく理解できないのに「毛沢東語録」などを読まされたものである。
その社会医学研究会であるが、医学部、看護学校を中心にした研究会で最も部員の多い時には100人以上が参集し、志布志町の山奥にある四浦、田ノ浦地区と三島村の竹島地区を中心にした無医村における社会医学活動と取り組んでいた(以来、私は訪ねたことはないが、その村も今では広域農道が走り、昔の面影はないという)。
病気は住居、経済などの社会的要因を背景にして生まれ、その現場に足を運ぶことにより、病気ではなく病人を丸ごと捉えることができるという信念に基づく活動だった。そのために、医療的に最も厳しい条件に置かれている無医村と離島をフィールドに選んだのである。
あの時代から約半世紀近くが経ち、親しくしていた仲間も何人か、あの世へと旅立ってしまった。当時の仲間だった4人、丸山先生、山下先生、皆越先生、そして私が7月16日の夜、割烹「山映」に集まった。4人とも主に鹿児島に居住しておりいろいろな会合で顔を合わせているが、「しゃいけん」時代の友として4人一緒に集まることがやっと実現したのである。文字通り、気のおけない古い友人と飲む酒ほどうまいものはない、である。
当日私は、当時の写真を持って行ったが、皆越先生も丸山先生も同じように写真やアルバムを持って来ており、それらの写真をみながら約半世紀前にタイムスリップしながら話は弾んだ。研究班は社会保障班、農夫症班、農薬班などに分けられ、私は農夫症班に属していた。主な活動としては当時、佐久病院の若月先生などが長野県の八千穂村などで推奨していた「農民体操」を県内の農村の人たちに普及実践する活動だった。私は実際にその活動を眼で見たいと思って、佐久病院で実習などさせていただいたこともあった。
また夏休みには100人ほどが四浦小学校や田ノ浦中学校に寝泊まりして、一週間ほどさまざまな活動したわけだから、今考えても大変なことである。食料などの調達、食事の準備などよくまかなえたものだと驚嘆する。全くの偶然であるが、なんと現在当院の日高看護部長は田ノ浦の出身で(当時可愛らしい高校生だったかと思われるが)、自宅に風呂を借りに来ていたことを思い出してくれた。まだ自家用車を持っている人は少ない時代で、大学のスクールバスで現地まで行って、後は自分の脚で炎天下、田舎道を歩いたものである。
席上、「当時のメンバーで、今一度集まってみたいな」という意見も出された。ただ名簿も残っていないし、どこに住んでおられるのかなどの情報もない。もしこのランを読んでおられる人で、「部員の消息」が判れば教えていただけたらと思う。
当時は、昭和39年に東京オリンピックがあり、日本が高度経済成長をまっしぐらに走っていた時代だったが、一方では安保反対やベトナム反戦運動、学費値上げ反対などと連動した学生運動も活発で騒然とした時代でもあった。社会医学研究会は政治運動とは一線を画していたが、多少とも当時の社会情勢に目覚めた人も多く、結構真面目に政治や医療を論じていた。先輩から、よく理解できないのに「毛沢東語録」などを読まされたものである。
その社会医学研究会であるが、医学部、看護学校を中心にした研究会で最も部員の多い時には100人以上が参集し、志布志町の山奥にある四浦、田ノ浦地区と三島村の竹島地区を中心にした無医村における社会医学活動と取り組んでいた(以来、私は訪ねたことはないが、その村も今では広域農道が走り、昔の面影はないという)。
病気は住居、経済などの社会的要因を背景にして生まれ、その現場に足を運ぶことにより、病気ではなく病人を丸ごと捉えることができるという信念に基づく活動だった。そのために、医療的に最も厳しい条件に置かれている無医村と離島をフィールドに選んだのである。
あの時代から約半世紀近くが経ち、親しくしていた仲間も何人か、あの世へと旅立ってしまった。当時の仲間だった4人、丸山先生、山下先生、皆越先生、そして私が7月16日の夜、割烹「山映」に集まった。4人とも主に鹿児島に居住しておりいろいろな会合で顔を合わせているが、「しゃいけん」時代の友として4人一緒に集まることがやっと実現したのである。文字通り、気のおけない古い友人と飲む酒ほどうまいものはない、である。
当日私は、当時の写真を持って行ったが、皆越先生も丸山先生も同じように写真やアルバムを持って来ており、それらの写真をみながら約半世紀前にタイムスリップしながら話は弾んだ。研究班は社会保障班、農夫症班、農薬班などに分けられ、私は農夫症班に属していた。主な活動としては当時、佐久病院の若月先生などが長野県の八千穂村などで推奨していた「農民体操」を県内の農村の人たちに普及実践する活動だった。私は実際にその活動を眼で見たいと思って、佐久病院で実習などさせていただいたこともあった。
また夏休みには100人ほどが四浦小学校や田ノ浦中学校に寝泊まりして、一週間ほどさまざまな活動したわけだから、今考えても大変なことである。食料などの調達、食事の準備などよくまかなえたものだと驚嘆する。全くの偶然であるが、なんと現在当院の日高看護部長は田ノ浦の出身で(当時可愛らしい高校生だったかと思われるが)、自宅に風呂を借りに来ていたことを思い出してくれた。まだ自家用車を持っている人は少ない時代で、大学のスクールバスで現地まで行って、後は自分の脚で炎天下、田舎道を歩いたものである。
席上、「当時のメンバーで、今一度集まってみたいな」という意見も出された。ただ名簿も残っていないし、どこに住んでおられるのかなどの情報もない。もしこのランを読んでおられる人で、「部員の消息」が判れば教えていただけたらと思う。
