Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

林住期(2015/07/22) 

国立名誉院長会から年に一回発行される「燦」には、理事会や総会の議事録や決算報告と共に毎年「近況報告」なるものがある。65歳が定年(最長3年間の延長もあるということだが)なので、それ以降のそれぞれの近況が報告されている(ちなみに私は「寄稿」しなかった)が、「ああ、そういう生き方もあったのか」などと考えながら読み過ごしている。
 五木寛之の「林住期」によると、古代インドでは人生を四つの時期に分けて考えたという。「学生期(がくしょうき)」、「家住期(かじゅうき)」、そして、「林住期(りんじゅうき)」と「遊行期(ゆぎょうき)」である。このうち林住期は50歳から75歳で、この近況報告でいうならば65歳から75歳がその歳にあたる。そして五木は「林住期をこそ、真の人生のクライマックスと考えたい」と書いている。
 近況報告では、私のように他の病院の院長や施設長に就いている人、一週間のうち数日、外来で働いている人などさまざまで、我々の時代ではいわゆる悠々自適な生き方をされている人は少ないようである。それでも「果樹の世話をして、家内と野菜作りをやっています」とか、「週2回の外来勤務、週3回の聞茶会、家庭菜園、近距離旅行を楽しんでいます」という人もいる。また「兄の病院を手伝いながら、晴ゴ雨碁時に旅有、リタイア後に始めたピアノですが、指が動かず苦戦の日々です」や「万葉集に凝っています」という人や、びっくりしたのは「79歳で開業して5年が経ちました」という元気な人もいる。
 私の恩師の井形先生は「人間は誰しもいつかは死ぬべき運命にあるが、死に直面してはじめて悩み、苦しむことが多い。最近、痛みなどの身体的苦痛が抑圧されるようになり、いわゆる『スピリチュアルペイン』が大きな課題となってきた。・・・死を越えて前向きに考えるためには以下のようなことを提案したい。
 1)  安らかな死は可能である。
 2)  死ねばあの世で懐かしい人々に再会できる。
 3)  この世では自分のことをいつまでも覚えてくれる。
 4)  天国は存在し、そこに行ける。
 などと考えると良い。・・・
 かって勤務したドイツの病院では、終末期には家族がカトリック神父に連絡し、神父が病室を訪れ、主治医を中座させて死に関する儀式を行い、死にゆく人は安らかに死を迎えていた。死に関する多くの知識を知っていれば、より良き死の選択が容易となる。私が関与している尊厳死も一つの選択肢と言える」という長文を寄稿されている。そして最後に「お蔭様で元気に私学の学長職を続けています。目指せ健やかな100歳を目標にしています」と、いつもながらあっぱれな前向きな言葉である。
 私の尊敬する、60歳をちょっと過ぎたばかりの先生から次のようなメールを頂いた。
 私は今期で早期退職しようと考えています。高齢の母の介護問題もかかえて、人生終盤の大事な時期をあくせく暮らしていることが、もったいなく感じます。もっと別のこともしてみたいのですが・・・。
 五木の表現する「林住期」と「遊行期」をどのように過ごすべきか、個人的には極めて難しいことである。鹿児島県での男性の健康寿命が71歳だという話を聞くと、元気で過ごせる期間は限られている。このまま仕事を続けるべきか迷う所であるが、自分には生き甲斐につながりそうな趣味を持っていない。仕事をとってしまうと、ぼっとして退屈に過ごすしかない寂しい人生だろうと容易に想像がつく。また当院では私より高齢の方々が若者に負けないくらい元気で頑張っておられる姿に、いつも大きな勇気をもらっている。