大往生(後)(2015/07/17)
終末期医療を、そして延命治療をどのように考えていけばいいのか、かけがえのない人の「いのち」に関わる問題なのでいつも難しく、考え出すと堂々巡りを繰り返すことになる。「終末期医療」という言葉は私たち医療者が日常的に使っていた言葉であるが、人生の最終章での医療という意味である。ただどことなく暗いイメージがつきまとうとして、厚労省の検討会では「人生の最終段階における医療」と書き改めた。「名称を変更することで、医療行為のみに注目するのではなく、最後まで尊厳を尊重した人間の生き方に着目していくことに重点をおく」としているが、日常会話の時にはちょっと長ったらしい気がする。もう少し現場に即した、ふさわしい言葉はないものだろうか。
この医療は「立ち位置」によっても、また人それぞれ考え方も異なるので、その議論はできることなら避けて通りたい気にもなる。ただ大林さんが「議論をためらっている余裕はない」との言葉はけだし箴言であると思う。「総論賛成、各論反対」や「命は地球より重い」という言葉で、果てしない延命治療を続けている現在の日本の医療を変えていかなければならない時ではないだろうか。
医療の現場に「財源」という考え方を導入するのは控えたいし、理想的には患者・家族の望むように、そしてまた「いのち」はどんなことがあっても守っていきたいというのは誰しも希望するところである。しかし迫りくる団塊世代による超高齢社会を考える時、どうしても医療費の適切な配分という問題もからめて議論する必要がある。例えば透析医療に関して、イギリスのように50歳以上は新規に透析導入はしないとか、ドイツのように60歳以上は医療保険の対象から外すといったことを行っている国々もある。ちなみに日本では低額(患者負担は月額1万円)で年齢制限等もなく、幾らでも透析を続けることができている。日本の透析医療を模範とすべきで諸外国が日本の制度を見習うべきだとも思うが、お金は天から降ってくるわけでもないし、財源の壁はいかんとうもしようがない。
元自治医科大学消化器外科教授の笠原小五郎氏(全国パーキンソン病友の会会報の2012年1月号)の「提言」には次のような一節がある。施設間で差はあるが、一人の胃ろう患者には年間ざっと400万円の公費と100万円の自己負担が必要となる。全国40万人の胃ろう患者のうち植物状態にある人が3割を占めるとすれば、毎年6千億円ものお金が使われていることになる。
ずいぶん前になるが、当時自民党の幹事長だった石原伸晃氏がBS朝日の番組で、高齢者の終末期医療で「胃ろう」を受ける患者に関し、「社会の最下層で身寄りもない人の末期医療を担っている所に行くと、意識が全くない人に管を入れて生かしている。何十人も寝ている部屋を見たとき何を思ったか。エイリアンだ」と発言した。石原氏の発言は率直だし、そのように思ってそのような発言をしたものだと理解される。ただ将来の日本の政治を背負う一人とも目されていた政治家の発言としては軽すぎるし、表現の仕方があまりにも稚拙と言わざるを得ない。
私は個人的には、終末期の医療を受けている患者本人の「幸福感」が基準となる最も重要な要素であるような気がする。ただ患者本人がさまざまな理由で正しい認識ができない状況も多いし、また家族の気持ちも千差万別であり、生きていてくれたらそれでいいと思う人もいる。一概にそれをエゴだとも決めつけられないし、正直なところ考えがまとまらなくなっていく。
また医師としては「納棺された時にいい顔で」を常に考えてきた。中心静脈栄養や人工呼吸器を長く続けていると、どうしても顔貌も変形してしまう。残された家族が後で振り返るとき、「安らかな死に顔でよかった」と思えるような医療を考えるのも医療者の責務ではないかと思う。
この医療は「立ち位置」によっても、また人それぞれ考え方も異なるので、その議論はできることなら避けて通りたい気にもなる。ただ大林さんが「議論をためらっている余裕はない」との言葉はけだし箴言であると思う。「総論賛成、各論反対」や「命は地球より重い」という言葉で、果てしない延命治療を続けている現在の日本の医療を変えていかなければならない時ではないだろうか。
医療の現場に「財源」という考え方を導入するのは控えたいし、理想的には患者・家族の望むように、そしてまた「いのち」はどんなことがあっても守っていきたいというのは誰しも希望するところである。しかし迫りくる団塊世代による超高齢社会を考える時、どうしても医療費の適切な配分という問題もからめて議論する必要がある。例えば透析医療に関して、イギリスのように50歳以上は新規に透析導入はしないとか、ドイツのように60歳以上は医療保険の対象から外すといったことを行っている国々もある。ちなみに日本では低額(患者負担は月額1万円)で年齢制限等もなく、幾らでも透析を続けることができている。日本の透析医療を模範とすべきで諸外国が日本の制度を見習うべきだとも思うが、お金は天から降ってくるわけでもないし、財源の壁はいかんとうもしようがない。
元自治医科大学消化器外科教授の笠原小五郎氏(全国パーキンソン病友の会会報の2012年1月号)の「提言」には次のような一節がある。施設間で差はあるが、一人の胃ろう患者には年間ざっと400万円の公費と100万円の自己負担が必要となる。全国40万人の胃ろう患者のうち植物状態にある人が3割を占めるとすれば、毎年6千億円ものお金が使われていることになる。
ずいぶん前になるが、当時自民党の幹事長だった石原伸晃氏がBS朝日の番組で、高齢者の終末期医療で「胃ろう」を受ける患者に関し、「社会の最下層で身寄りもない人の末期医療を担っている所に行くと、意識が全くない人に管を入れて生かしている。何十人も寝ている部屋を見たとき何を思ったか。エイリアンだ」と発言した。石原氏の発言は率直だし、そのように思ってそのような発言をしたものだと理解される。ただ将来の日本の政治を背負う一人とも目されていた政治家の発言としては軽すぎるし、表現の仕方があまりにも稚拙と言わざるを得ない。
私は個人的には、終末期の医療を受けている患者本人の「幸福感」が基準となる最も重要な要素であるような気がする。ただ患者本人がさまざまな理由で正しい認識ができない状況も多いし、また家族の気持ちも千差万別であり、生きていてくれたらそれでいいと思う人もいる。一概にそれをエゴだとも決めつけられないし、正直なところ考えがまとまらなくなっていく。
また医師としては「納棺された時にいい顔で」を常に考えてきた。中心静脈栄養や人工呼吸器を長く続けていると、どうしても顔貌も変形してしまう。残された家族が後で振り返るとき、「安らかな死に顔でよかった」と思えるような医療を考えるのも医療者の責務ではないかと思う。
