Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

大往生(前)(2015/07/15) 

6月27日早朝、家内の叔父にあたる相良栄二さんが脳内出血のために救急病院に搬送されたが、その日の午後に亡くなられた。相良酒造9代目で91歳だった。当日私は鹿児島セイフティネット研究会(代表世話人をしている)の最中で、どうしても留守にすることはできずに病院に駆けつけることはできなかった。
 叔母さんから「主治医の先生から、延命措置をしたら数日は命を長らえるかもしれないと言われましたが、どうしましょうか」という電話を頂いた。私は「自然に任せるのがいいかと思います」と返事した。
 相良酒造は1615年に、大阪夏の陣の後に人吉から鹿児島市に移り住んで、1730年(享保15年)に現在の柳町で酒屋を始めたのだという。1994年の南日本新聞夕刊の「ほろ酔い届け人、焼酎の裏方たち」という記事では、次のように語られていた。
 鹿児島市内で仕込みから瓶詰までしている造り場は一軒だけになった。その理由として原料のサツマイモを運ぶのに輸送費がかかったり、周囲の民家に匂いを出さないように気を遣うなどのハンディがある。それでもここで造っているのは、人吉から移ってから先祖代々受け継いできた伝統を絶やしたくないこと、「幻」といえる焼酎を造って次の10代目に引き継ぎたい。
 昨年の南風病院60周年を記念して、「人にやさしくあたたかく」のラベルの焼酎小瓶を叔父さんに製造してもらったのは、私にとってはいい思い出となった。
 葬儀では工場長が「社長はいつも我々に、一生懸命ではいかん、けしんかぎいせんと(死ぬつもりで頑張らないと)と言っておりました」と弔辞を述べられた。私は亡くなる5日ほど前に一時間ほど話をする機会があったが、工場を鹿児島市の郊外に移転する計画があると熱っぽく語っていた。「そんなら、後10年は元気でおらんと」と応じたばかりだった。焼酎に傾ける情熱は誰にも負けないものがあり、焼酎の未来を心配しながらも将来に期するものを持っていた。私に対しては殊の外信頼してくれていて、新しい焼酎ができた時には真っ先に届けてくれた。最後の銘柄が丹娯(たんご)という名称で、偶然私の孫の名前と呼び方が一緒である。最近少し鬱っぽくなっていたが不断は笑顔を絶やさず話し好きで、今では珍しくなったきれいな鹿児島弁を話す人だった。「ぴんぴんころり」は高齢者にとっての共通の願いだが、その歳まで元気であればこそ可能になるのだと叔父さんの最期に接して思うことである。大往生といえるが、人の死はいつも寂しいものがある。
 6月28日の日経朝刊の「核心」というコーナーで、編集委員の大林尚さんが「人らしく逝くという選択」というタイトルで寄稿している。内容から全国紙にこのような大胆な提言をするのは異例ともいえるが、状況はそれほどせっぱ詰まっているとも考えられる。その趣旨を要約すると次のようなものになる。
 日本で年間の死亡数が150万人に達するのは9年後。少産に歯止めをかけ、多死への対応を急ぐ。二正面作戦は日本人に重い課題だ。日本人の死因は多い順に①悪性新生物(がん)②心疾患③肺炎である。何らかの理由で意識が戻らない状態に陥り、意志に反して延命治療を受けている人もいるだろう。自然の摂理に照らすと、本来の死亡者はもっと多いはずだ。