(5)父と母(2015/08/31)
私の家族にとっての大きな転機は、兄が高校に進学するのを機会に父が鹿児島市に転勤する決断をしたことではないだろうか。父は戦前、師範学校を卒業して教師として働いていたが、県教委の計らいで東京に国語教育の研修のために一年ほど国内留学を命じられて上京している。帰鹿後、比較的早く郷里の学校で教頭に昇進したが、(県北部の学校への異動を断り)鹿児島市への転勤はいわゆる降格という身分で城南小学校に赴任した。最終的には校長になることもなく県立整肢園で職を終えたが、障がい児教育にたずさわったということで私の仕事とも少しは関わりが持てたのは不思議な縁である。父にとっては不本意なことだったかと思うが、兄が鶴丸高校から鹿児島大学医学部に進学し医師になり、私と弟も全く同じ道を歩むことになったのは父の決断のお陰である。姉は鶴丸高校から県立短大を卒業して栄養士の仕事に就いた。当時、世帯を別にしながら子供たちすべてを大学に進学させることは、経済的にも大変なことだったかと想像できる。
母は鹿児島市に移転してからは、下宿のまかないや和服の仕立ての内職で忙しかった。親戚や同郷の子どもたちを預かって、生活と教育の面倒を見ていたのである。
父がくも膜下出血のために61歳で急逝したとき、弟以外は大学を卒業していたが、それなりの苦労はあったはずである。でも人前では苦労など一切見せない性格で、母が落ち込んでいた姿を思い出すことはできない。いつもどんな時にも前向きに、おおらかに、ほがらかに人生を処してきたように思える。
子どもたちがそれぞれ独立してからは、私たちを育てた原良町の家で一人暮らしをしていた。同じように寡婦となった母の弟の嫁さんと二人で旅行に出かけたり、家内のお婆ちゃんと皇居の清掃奉仕作業に参加したこともあった。また私がアメリカに留学していたときには、義母と二人でミネソタまで珍道中さながらに会いに来てくれた。ミネアポリスの空港に迎えに行ったら、二人して不安げにゲートに現れたのは30年以上前のことになる。
そして弟が出水で開業したのを機会に75歳の時に出水市に転居して、弟の隣に家を新築して平穏な暮らしを始めた。さつきの鉢植えを楽しんだり、習字では南日本書道会から「師範」の認定まで受けている。またグラウンドゴルフに熱中していたので子どもたちで立派なクラブを誕生日プレゼントとして進呈したが、直後に脳梗塞を発病したのでほとんど使うことはなかった。
脳梗塞で右片麻痺になったのが85歳で、持ち前の気丈さでリハビリに励んだために右手は不自由ないくらいまで回復したが、歩くことはかなわず車いすの生活となった。それでもデイケアやデイサービスに行くと、「誰よりも早く全ての器械で訓練するんだ」と誇らしげに話していた。「こんな場面でも『一番は』母の身上なのだなあ」と、子どもたちで笑ったものである。気が短く心配性で、約束の時間のずいぶん前に目的地に着くという私のせっかちな性格はどうも母譲りのようである。
病気になった後も心優しい弟夫妻や気心のあった家政婦さんのお蔭もあり、豊かな余生を送ることができた。
88歳の米寿の祝いでは感謝の言葉を述べたが、内容も声量もメリハリがきき、起承転結もしっかりできていて、出席者一人一人への気配りも忘れないりっぱなものだった。ところが90歳を過ぎたころから普通の会話ではほとんど問題がないのに短期記憶が悪くなり、言ったことや起きた出来事などをすぐに忘れてしまうようになった。いわゆる認知症が始まったのである。ただ救いは、最期まで人格は保たれていたことである。そして94歳の時に老人ホームに入所することとなった。
母は鹿児島市に移転してからは、下宿のまかないや和服の仕立ての内職で忙しかった。親戚や同郷の子どもたちを預かって、生活と教育の面倒を見ていたのである。
父がくも膜下出血のために61歳で急逝したとき、弟以外は大学を卒業していたが、それなりの苦労はあったはずである。でも人前では苦労など一切見せない性格で、母が落ち込んでいた姿を思い出すことはできない。いつもどんな時にも前向きに、おおらかに、ほがらかに人生を処してきたように思える。
子どもたちがそれぞれ独立してからは、私たちを育てた原良町の家で一人暮らしをしていた。同じように寡婦となった母の弟の嫁さんと二人で旅行に出かけたり、家内のお婆ちゃんと皇居の清掃奉仕作業に参加したこともあった。また私がアメリカに留学していたときには、義母と二人でミネソタまで珍道中さながらに会いに来てくれた。ミネアポリスの空港に迎えに行ったら、二人して不安げにゲートに現れたのは30年以上前のことになる。
そして弟が出水で開業したのを機会に75歳の時に出水市に転居して、弟の隣に家を新築して平穏な暮らしを始めた。さつきの鉢植えを楽しんだり、習字では南日本書道会から「師範」の認定まで受けている。またグラウンドゴルフに熱中していたので子どもたちで立派なクラブを誕生日プレゼントとして進呈したが、直後に脳梗塞を発病したのでほとんど使うことはなかった。
脳梗塞で右片麻痺になったのが85歳で、持ち前の気丈さでリハビリに励んだために右手は不自由ないくらいまで回復したが、歩くことはかなわず車いすの生活となった。それでもデイケアやデイサービスに行くと、「誰よりも早く全ての器械で訓練するんだ」と誇らしげに話していた。「こんな場面でも『一番は』母の身上なのだなあ」と、子どもたちで笑ったものである。気が短く心配性で、約束の時間のずいぶん前に目的地に着くという私のせっかちな性格はどうも母譲りのようである。
病気になった後も心優しい弟夫妻や気心のあった家政婦さんのお蔭もあり、豊かな余生を送ることができた。
88歳の米寿の祝いでは感謝の言葉を述べたが、内容も声量もメリハリがきき、起承転結もしっかりできていて、出席者一人一人への気配りも忘れないりっぱなものだった。ところが90歳を過ぎたころから普通の会話ではほとんど問題がないのに短期記憶が悪くなり、言ったことや起きた出来事などをすぐに忘れてしまうようになった。いわゆる認知症が始まったのである。ただ救いは、最期まで人格は保たれていたことである。そして94歳の時に老人ホームに入所することとなった。
