(6)母の思い出を語る(2015/09/01)
母の人生を子供の眼から見ると、天寿まで全うできて幸せな一生ではなかったかと考える。もちろんこの時代に生まれた人の常として、戦争(父の出征)や戦後の物資に乏しい厳しい時代を生きてきたので、それなりの苦労もあったかも知れない。そして「お父さんはいい人だった」とよく口にしていたが、50歳をちょっと過ぎたころにその夫が急逝してしまう。
母は何事にも一生懸命で、前向きに物事を考えることのできる人だった。与えられた場所と環境でその時にやらなければならないことを、苦労とは考えずに淡々とやってのけた。田舎では農業を、鹿児島に来てからは下宿の仕事が中心となった。もともと教師だったということもあって、他人の子どもを預かって教えることは楽しかったようである。数年前に亡くなった従兄(頴娃町で医院を開業していた)は二中(現在の甲南高校)の受験のころを懐かしみながら、「トミさんには随分しごかれましてね」と飲んだ席では笑いながらよく話してくれたものである。私たち兄弟に対するスタンスとの違いに驚くが、預かったのが新婚時代と若かったことと、他人様の子ども(姉の長男)であるという責任感があったのだろう。
亡くなる前には口癖のように「経済的にも子供たちの世話にならんですんだ」と言っていたが、おそらく自分では辛抱しながら子どもたちのことを最優先に考えた生活設計を考えていたのだろう。大正生まれの、「自分のことは自分でする」という誇りと矜持を強く持っていたように思う。
デイケアで担当の人に「子供さんの教育で、何か特別な教育方針のようなものがありましたか」と尋ねられた時には、「勉強をしやすい環境を作ってやることと、あとはいい習慣をつけるという躾だけはしたように思います」と話していたという。良妻であったかどうかはよくわからないが、いつも子供たちの幸せを考えてくれた賢母であったことは確かである。私自身振り返っても「勉強しろ」などと言われたことはなかったが、自然と「勉強はするもんだ」という習慣がついていた。私は一度だけ、小学校の時には悪い点をもらったときに、「女の子に負けて悔しくないのか」と怒られた記憶がある。
世間的な「教育ママ」とはちょっと違うような気もする。時代的な反映でもあるが、子供4人とも塾に通ったこともなければ、いわゆる習い事をしたこともなかった。大概は好きなように「放置」してくれていた。ただ子供や孫の大学受験を何度も経験したので受験情報には精通しており、姉の話では孫娘が地元の三重大学の医学部を受験したときに、科目ごとの予想点数を聞いて「それなら大丈夫と太鼓判を押したことがあった」と笑いながら振り返っていた。全国の大学の合格水準などが、きちんと頭の中で整理されていた。通夜にも葬式にも出席してくれたテルユキ君(母の姉の子どもで、兄弟のように親しくしていた従兄のデンユキさんの子ども)は「進学や結婚など節目節目で貴重なアドバイスをいただいたし、トミおばさんがいなければ今の『ドクターこてる』はなかったとだけは言える」とブログに記している。
また兄の長男には「東大に受かったら100万円をあげるよ」と変わったインセンティブを与えていた。ところが本当に文Ⅰに合格した時には、「他の孫もいるのでゴメンナサイ。気持ちだけで我慢してね」と申し訳なさそうに謝ったという話も今回初めて知った。
私が新聞社や放送局の取材を受けたり、寄稿した原稿が掲載されると嬉しそうに電話をかけてきた。また書いたものをよく読んでくれていたので「院内ラン」も毎月読んでもらっていた。「いい読み手」だったが、3,4年前から関心を示さなくなったので、「あの頃から認知症が始まったのだろう」と思うことである。また東京に出張するときにはいつも空港から電話をかけていた。「元気で行ってこいよ」という一言だったが、もう聞けないかと思うと無性に寂しくなる。父も母も鹿児島県人に特有のてらいや気恥ずかしさの故か、子どもたちに面と向かって教訓めいた言葉をしゃべることはなかった。
母は何事にも一生懸命で、前向きに物事を考えることのできる人だった。与えられた場所と環境でその時にやらなければならないことを、苦労とは考えずに淡々とやってのけた。田舎では農業を、鹿児島に来てからは下宿の仕事が中心となった。もともと教師だったということもあって、他人の子どもを預かって教えることは楽しかったようである。数年前に亡くなった従兄(頴娃町で医院を開業していた)は二中(現在の甲南高校)の受験のころを懐かしみながら、「トミさんには随分しごかれましてね」と飲んだ席では笑いながらよく話してくれたものである。私たち兄弟に対するスタンスとの違いに驚くが、預かったのが新婚時代と若かったことと、他人様の子ども(姉の長男)であるという責任感があったのだろう。
亡くなる前には口癖のように「経済的にも子供たちの世話にならんですんだ」と言っていたが、おそらく自分では辛抱しながら子どもたちのことを最優先に考えた生活設計を考えていたのだろう。大正生まれの、「自分のことは自分でする」という誇りと矜持を強く持っていたように思う。
デイケアで担当の人に「子供さんの教育で、何か特別な教育方針のようなものがありましたか」と尋ねられた時には、「勉強をしやすい環境を作ってやることと、あとはいい習慣をつけるという躾だけはしたように思います」と話していたという。良妻であったかどうかはよくわからないが、いつも子供たちの幸せを考えてくれた賢母であったことは確かである。私自身振り返っても「勉強しろ」などと言われたことはなかったが、自然と「勉強はするもんだ」という習慣がついていた。私は一度だけ、小学校の時には悪い点をもらったときに、「女の子に負けて悔しくないのか」と怒られた記憶がある。
世間的な「教育ママ」とはちょっと違うような気もする。時代的な反映でもあるが、子供4人とも塾に通ったこともなければ、いわゆる習い事をしたこともなかった。大概は好きなように「放置」してくれていた。ただ子供や孫の大学受験を何度も経験したので受験情報には精通しており、姉の話では孫娘が地元の三重大学の医学部を受験したときに、科目ごとの予想点数を聞いて「それなら大丈夫と太鼓判を押したことがあった」と笑いながら振り返っていた。全国の大学の合格水準などが、きちんと頭の中で整理されていた。通夜にも葬式にも出席してくれたテルユキ君(母の姉の子どもで、兄弟のように親しくしていた従兄のデンユキさんの子ども)は「進学や結婚など節目節目で貴重なアドバイスをいただいたし、トミおばさんがいなければ今の『ドクターこてる』はなかったとだけは言える」とブログに記している。
また兄の長男には「東大に受かったら100万円をあげるよ」と変わったインセンティブを与えていた。ところが本当に文Ⅰに合格した時には、「他の孫もいるのでゴメンナサイ。気持ちだけで我慢してね」と申し訳なさそうに謝ったという話も今回初めて知った。
私が新聞社や放送局の取材を受けたり、寄稿した原稿が掲載されると嬉しそうに電話をかけてきた。また書いたものをよく読んでくれていたので「院内ラン」も毎月読んでもらっていた。「いい読み手」だったが、3,4年前から関心を示さなくなったので、「あの頃から認知症が始まったのだろう」と思うことである。また東京に出張するときにはいつも空港から電話をかけていた。「元気で行ってこいよ」という一言だったが、もう聞けないかと思うと無性に寂しくなる。父も母も鹿児島県人に特有のてらいや気恥ずかしさの故か、子どもたちに面と向かって教訓めいた言葉をしゃべることはなかった。
