Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

(4)母の生い立ち(2015/08/28) 

母は、大正9年3月に揖宿郡頴娃町(現在の南九州市)の小さな半農半漁の村で生まれた。薩摩半島の指宿市と枕崎市のちょうど中間に位置しており、東シナ海に面している。最近、にわかに観光スポットとなった釜蓋神社のある村である。実家は農業と漁業で生計を営み、漁船を持っていたので網元ということになろうか。11人兄弟(男3人、女8人)の10番目で、当時は「産めよ増やせよ」の時代であったにせよたくさんの兄弟の中で育ったものである。生まれたときには兄弟の何人かは結婚しており、その子供も大きかったわけで姪っ子などに可愛がられて育ったという。私の孫娘の遊ぶ仕草を見ていると、どういう訳か母の幼少時の姿にダブってくる。大正時代から昭和の初めに幼少期を過ごしたことになるが、元気でお転婆な子どもだったという。
 今年になって四日市市に住んでいる姉が、母が老人ホームに入居することになったので、荷物の整理も兼ねて帰ってきた。「自分とお父さんの卒業証書や通知表などの書類も大切にとっておいたようで、一緒に捨てるつもりだけどよかったら持っていったら。ヒデトシぐらいしか興味を示す人はいないだろうから」というので、紙袋に入った書類をそのまま持ち帰って自分なりに整理してみた。
 母に関する書類は全てセピア色に変色した10枚で、年代順に並べると昭和9年の鹿児島市立女子興業学校の入学試験の通知に始まる。母の姉妹も女学校に進学しているようで、また長男は師範学校卒業後に教職に就き、校長など歴任したのち最後には頴娃町長を、次男(末っ子)は千葉医科大学を卒業して故郷で開業していた。当時あのような田舎町から子供たちを進学させるのは大変な苦労があったわけで、両親の先見の明とある程度経済的に余裕があったから可能だったのだろう。
 母の書類には尋常小学校時代のものはなく、鹿児島市立女子興業の入学試験の結果から始まっている。入学試験の成績は112人中の8番であるが、田舎から鹿児島市内に初めて出てきたわけで妥当な結果だろう。でもこの時代、成績を保護者に逐次通知していたことには驚く。母は、鹿児島市内で教職にあった長男の家に下宿して女学校に通っていたという。また女子興業時代に、天皇陛下の行幸の時に盛花を飾ることができたのは大変な名誉であったようで何度も聞かされていた。その後の通知表の成績をみると、よく努力して、席次はほとんどが全体で2番となっている。「どうしても追い越せない友だちが一人いてね」と悔しそうに話していた。母にはかち気で、負けず嫌いなところもあった
 卒業後2年ほど専攻科を出て、教職に就いている。昭和16年に辞めているので、4年間の在職ということになる。教職時代の話を聞いたことはないが、この年に結婚しておりいわゆる寿退職ということだろうか。兄(長男)、姉(長女)が生まれた後、父は召集を受けてフィリピンのルソン島に出征している。父も母も戦時中のことはほとんど話したことがなかったのでよく知らない。
 戦後は父の故郷で、それまで一度も経験することのなかった百姓(農業)の仕事を懸命に楽しんだ。経験もなく周りの人に聞きながら見よう見まねで始めたらしいが、姉は「自分は百姓の子供だ」と思っていたほどの熱の入れようで、ある時には反あたりのサツマイモ収穫高で表彰されたこともあったという。何事にも熱心に取組み、そして工夫して成果を上げるというのは母の真骨頂ともいうべきだろう。私も鹿児島市に転校した10歳頃までは、田植えから稲刈り、からいもの植え付け、麦踏みなどの一連の農作業を全て経験できた。小さいころに自然豊かな田舎で過ごすことができたのは、私にとってもかけがえのない経験であり宝物である。