(3)家族葬で(2015/08/27)
18日朝、いつものように南風病院のレストラン「空」で昼食をとっていたところ、携帯電話がなり「おふくろが亡くなったがよ」という弟の重くくごもった一言である。安らかに眠るように浄土へと旅立ったという。
かねての打ち合わせ通りに葬儀社に頼んで、母の遺体を出水市から姶良市に移送してもらうことにした。私たち夫婦は「みそらホール」に直行し、しばらくして遺体が到着した。敷き布団の上に横たえられた母の体に、弟の嫁さんと娘が嗚咽しながらすがりつく様子に最期の20年間を庭一つ挟んで一緒に暮らした心の通い合いの深さに有り難く感謝した。「母は幸せだったなあ」と改めて感じることができた。兄夫婦、姉、弟夫婦も揃ったので家族みんなで納棺したが、棺に収まった母の小さな体は一回り小さくみえた。
係の女性が死化粧を施してくれたが、唇を真一文字に閉じた顔は凛としており、まるで今にも「私の亡き後も、しっかり生きれよ」と子どもたちに諭しているように感じられた。
通夜には母の郷里から甥夫妻や、従兄の子どもたちが駆けつけてくれた。きれいな花々で囲まれた立派な祭壇の中央には、在りし日の母の遺影が飾られている。80歳のころに自分で用意したという遺影であるが、どことなく寂しく感じられる。祭壇の横にはデイサービスからもらった笑顔の写真も飾られているので、うまく調和がとれていたのかも知れない。また祭壇の両脇に子供、孫からの献花と、ひ孫からの果物が供えられ、掛け軸には母が元気な頃にしたためた李白による漢詩も飾られた。近くの西本願寺からお呼びした導師の読 経が20時に始まり、30分ほどで講話も終わって簡素な通夜の席となった。兄夫妻、姉、弟の妻が葬儀場で夜を明かすことになり、私たちは車で家路についた。
本葬の朝、天気は穏やかな薄曇りである。いつものように病院に出勤し、日常の仕事と会葬者への「書状」を書いてから、10時過ぎにウエルビュー鹿児島へと向かった。11時から12時30分までの間、九州地区病弱虚弱教育研究連盟研究協議会鹿児島大会で講演を頼まれていたからである。講演の中の「私の履歴書」の下りで、小学校4年のころに郷里の家の前で撮った家族の集合写真を供覧したが、真ん中で椅子に座っている若かりし頃の母を見た時には一瞬声が詰まってしまった。この時代、写真を撮ってもらうことは少なく、みな緊張して心なしか寂しげに写っている。
講演を終えて車で葬儀場に向かったが、渋滞もなく13時5分には着くことができた。葬儀は既に始まっていたが、焼香には十分に間に合うことができた。鹿児島市に住んでいる父の姉の子どもと奥さんも出席してくれていた。14時に出棺となり、この時に驚いたのはホール全体に朗々とした美しい男性の歌声が響いたことである。懐かしいあの「ふるさと」という唱歌で、後で聞いたところでは歌っていたのはこのホールの職員で東京の音楽学校出身のセミプロだと知って納得した。
一時間ちょっとで火葬を終えて、16時前には再びホール戻ってきて初七日の法要を行い、全ての儀式をつつがなく終えることができた。
私は初めて、家族葬というものを経験した。母が高齢で友だちもほとんど亡くなっていたこと、私たち子どもの関係者に儀礼的に遠くまで足を運んで頂くことは申し訳なく思ったのが家族葬を選んだ最大の理由である。また最近、私の都立府中病院時代の恩師で国立静岡病院の院長をされていた宇尾野公義先生が今年の6月2日に亡くなり、一月ぐらい後に息子さんから「家族葬を済ませました」という葉書を頂いたことも家族葬を決めた一つの伏線になっている。現職中ならさまざまな関わりもあって願ってもかなわない場合も多いだろうが、家族葬ではしきたりに煩わされることなくしんみりと心から故人を偲ぶことができたように感じている。
かねての打ち合わせ通りに葬儀社に頼んで、母の遺体を出水市から姶良市に移送してもらうことにした。私たち夫婦は「みそらホール」に直行し、しばらくして遺体が到着した。敷き布団の上に横たえられた母の体に、弟の嫁さんと娘が嗚咽しながらすがりつく様子に最期の20年間を庭一つ挟んで一緒に暮らした心の通い合いの深さに有り難く感謝した。「母は幸せだったなあ」と改めて感じることができた。兄夫婦、姉、弟夫婦も揃ったので家族みんなで納棺したが、棺に収まった母の小さな体は一回り小さくみえた。
係の女性が死化粧を施してくれたが、唇を真一文字に閉じた顔は凛としており、まるで今にも「私の亡き後も、しっかり生きれよ」と子どもたちに諭しているように感じられた。
通夜には母の郷里から甥夫妻や、従兄の子どもたちが駆けつけてくれた。きれいな花々で囲まれた立派な祭壇の中央には、在りし日の母の遺影が飾られている。80歳のころに自分で用意したという遺影であるが、どことなく寂しく感じられる。祭壇の横にはデイサービスからもらった笑顔の写真も飾られているので、うまく調和がとれていたのかも知れない。また祭壇の両脇に子供、孫からの献花と、ひ孫からの果物が供えられ、掛け軸には母が元気な頃にしたためた李白による漢詩も飾られた。近くの西本願寺からお呼びした導師の読 経が20時に始まり、30分ほどで講話も終わって簡素な通夜の席となった。兄夫妻、姉、弟の妻が葬儀場で夜を明かすことになり、私たちは車で家路についた。
本葬の朝、天気は穏やかな薄曇りである。いつものように病院に出勤し、日常の仕事と会葬者への「書状」を書いてから、10時過ぎにウエルビュー鹿児島へと向かった。11時から12時30分までの間、九州地区病弱虚弱教育研究連盟研究協議会鹿児島大会で講演を頼まれていたからである。講演の中の「私の履歴書」の下りで、小学校4年のころに郷里の家の前で撮った家族の集合写真を供覧したが、真ん中で椅子に座っている若かりし頃の母を見た時には一瞬声が詰まってしまった。この時代、写真を撮ってもらうことは少なく、みな緊張して心なしか寂しげに写っている。
講演を終えて車で葬儀場に向かったが、渋滞もなく13時5分には着くことができた。葬儀は既に始まっていたが、焼香には十分に間に合うことができた。鹿児島市に住んでいる父の姉の子どもと奥さんも出席してくれていた。14時に出棺となり、この時に驚いたのはホール全体に朗々とした美しい男性の歌声が響いたことである。懐かしいあの「ふるさと」という唱歌で、後で聞いたところでは歌っていたのはこのホールの職員で東京の音楽学校出身のセミプロだと知って納得した。
一時間ちょっとで火葬を終えて、16時前には再びホール戻ってきて初七日の法要を行い、全ての儀式をつつがなく終えることができた。
私は初めて、家族葬というものを経験した。母が高齢で友だちもほとんど亡くなっていたこと、私たち子どもの関係者に儀礼的に遠くまで足を運んで頂くことは申し訳なく思ったのが家族葬を選んだ最大の理由である。また最近、私の都立府中病院時代の恩師で国立静岡病院の院長をされていた宇尾野公義先生が今年の6月2日に亡くなり、一月ぐらい後に息子さんから「家族葬を済ませました」という葉書を頂いたことも家族葬を決めた一つの伏線になっている。現職中ならさまざまな関わりもあって願ってもかなわない場合も多いだろうが、家族葬ではしきたりに煩わされることなくしんみりと心から故人を偲ぶことができたように感じている。
