終戦記念日(2015/08/14)
この時期になると、8月15日の終戦記念日を中心にテレビや書物でも戦争に関連したものが増えてくる。また一方では戦後70年、私も含めて戦争を知らない世代が大半を占めるようになり戦争に関する記憶が風化してきている。
宮内庁は8月1日付で、昭和天皇による終戦の玉音(ぎょくおん)放送の録音原盤と音声を初めて公開した。レコード原盤から再生した声は、複製を重ねた既存の音源に比べて明瞭で、ラジオ放送を通じて自ら終戦の混乱収拾にあたった44歳当時の昭和天皇の肉声がよみがえった。終戦の「聖断」が行われた皇居内の御文庫(おぶんこ)付属室(地下防空壕(ごう))内部の写真、映像なども公開された。
宮内庁は、公開の理由を「終戦関連の双璧とも言える象徴的な資料を戦後70年の機会に広く国民に知ってもらうことは非常に意義があると考えた」と説明。宮内庁幹部は「天皇陛下も了解し、同じ気持ち」としており、戦争の記憶の風化を防ぐ取り組みになると期待している。
「先生、今度の市の広報誌に、南九州病院や須崎のことが書いてありましたので持ってきます」と医療連携・相談支援室の桑波田さん(姶良市在住)から話があって、数日して「AIRAview7」という姶良市の広報誌をもってきてくれた。今月の特集が「日本史に登場しない私たちの記録」というもので、「戦後70年、姶良市で何が起きたか」という副題で、学童疎開や空襲、そして引き揚げのことなどが体験談と記録をもとに語られている。
「26,780人が上陸した引揚地『須崎』」というタイトルで3ページにわたって、須崎に住んでおられる昭和10年生まれの松田さんという人の思い出と共に綴られている。南九州病院に勤務していたとき、病院に隣接している「須崎」地区のことは時々聞いており慰霊碑の清掃にも参加したことがあるが、今回あらためていろいろな史実を知ることができた。
第二次世界大戦後、加治木港は引揚者の上陸する港として指定を受けた。これは、鹿児島市が戦災で大きな被害を受けて、当初上陸港として想定された鹿児島港では引揚者を収容することが困難であると判断されたことから、代替地として外地引揚民加治木事務所を開設して1945年(昭和20年)10月末から12月初旬まで活動したものである。その選定では、加治木療養所(現在の国立病院機構南九州病院)などの受け入れ施設も整っているということが条件となったようである。
上陸地は現在の加治木港がある場所ではなく、網掛川の右岸側に臨時の桟橋を設けて対応していた。加治木港へは約2万6700人が上陸し、記念碑が立てられている。
10月29日、最初の入港は南大東島からやせ細った帰還兵287人が到着した。その翌日以降も2船目、3船目がフイリピン方面から入港。一般邦人が続々入港したが、その中には戦争孤児も含まれていた。フイリピンからの引揚者のほとんどはマラリアや栄養失調で300人ほどが亡くなっている(実は私の父もルソン島で終戦を迎えているが、引揚地がどこだったかは聞いていない)。死者のほとんどは沖縄出身で、10歳未満の子供たちが大半を占めていた。
「毎日のように帰還する人たちを家から見ていた。小さな子供たちは栄養失調でぐったり。戦争に負けたんだ・・子どもながらに敗戦を痛感した。沿道を歩く姿はヨボヨボでぐったりした小さな子どもたちも多かった。須崎では小麦粉を使った手作りのせんべい、カッパ焼きを振る舞う住民もいた」と松田さん。
須崎の海は遠浅で、渡し船で浮き桟橋に上陸、引揚者は歩いて当時の加治木療養所に収容されたようだ。結核や栄養失調で亡くなる人が多く、敷地内で火葬されて埋葬されたこともあったという。病棟を新築するときに掘削したら、人骨がたくさん出てきたと聞いたこともある。
平和な暮らしは、国民みんなが努力しなければ実現できることではないということを思い出そう。
宮内庁は8月1日付で、昭和天皇による終戦の玉音(ぎょくおん)放送の録音原盤と音声を初めて公開した。レコード原盤から再生した声は、複製を重ねた既存の音源に比べて明瞭で、ラジオ放送を通じて自ら終戦の混乱収拾にあたった44歳当時の昭和天皇の肉声がよみがえった。終戦の「聖断」が行われた皇居内の御文庫(おぶんこ)付属室(地下防空壕(ごう))内部の写真、映像なども公開された。
宮内庁は、公開の理由を「終戦関連の双璧とも言える象徴的な資料を戦後70年の機会に広く国民に知ってもらうことは非常に意義があると考えた」と説明。宮内庁幹部は「天皇陛下も了解し、同じ気持ち」としており、戦争の記憶の風化を防ぐ取り組みになると期待している。
「先生、今度の市の広報誌に、南九州病院や須崎のことが書いてありましたので持ってきます」と医療連携・相談支援室の桑波田さん(姶良市在住)から話があって、数日して「AIRAview7」という姶良市の広報誌をもってきてくれた。今月の特集が「日本史に登場しない私たちの記録」というもので、「戦後70年、姶良市で何が起きたか」という副題で、学童疎開や空襲、そして引き揚げのことなどが体験談と記録をもとに語られている。
「26,780人が上陸した引揚地『須崎』」というタイトルで3ページにわたって、須崎に住んでおられる昭和10年生まれの松田さんという人の思い出と共に綴られている。南九州病院に勤務していたとき、病院に隣接している「須崎」地区のことは時々聞いており慰霊碑の清掃にも参加したことがあるが、今回あらためていろいろな史実を知ることができた。
第二次世界大戦後、加治木港は引揚者の上陸する港として指定を受けた。これは、鹿児島市が戦災で大きな被害を受けて、当初上陸港として想定された鹿児島港では引揚者を収容することが困難であると判断されたことから、代替地として外地引揚民加治木事務所を開設して1945年(昭和20年)10月末から12月初旬まで活動したものである。その選定では、加治木療養所(現在の国立病院機構南九州病院)などの受け入れ施設も整っているということが条件となったようである。
上陸地は現在の加治木港がある場所ではなく、網掛川の右岸側に臨時の桟橋を設けて対応していた。加治木港へは約2万6700人が上陸し、記念碑が立てられている。
10月29日、最初の入港は南大東島からやせ細った帰還兵287人が到着した。その翌日以降も2船目、3船目がフイリピン方面から入港。一般邦人が続々入港したが、その中には戦争孤児も含まれていた。フイリピンからの引揚者のほとんどはマラリアや栄養失調で300人ほどが亡くなっている(実は私の父もルソン島で終戦を迎えているが、引揚地がどこだったかは聞いていない)。死者のほとんどは沖縄出身で、10歳未満の子供たちが大半を占めていた。
「毎日のように帰還する人たちを家から見ていた。小さな子供たちは栄養失調でぐったり。戦争に負けたんだ・・子どもながらに敗戦を痛感した。沿道を歩く姿はヨボヨボでぐったりした小さな子どもたちも多かった。須崎では小麦粉を使った手作りのせんべい、カッパ焼きを振る舞う住民もいた」と松田さん。
須崎の海は遠浅で、渡し船で浮き桟橋に上陸、引揚者は歩いて当時の加治木療養所に収容されたようだ。結核や栄養失調で亡くなる人が多く、敷地内で火葬されて埋葬されたこともあったという。病棟を新築するときに掘削したら、人骨がたくさん出てきたと聞いたこともある。
平和な暮らしは、国民みんなが努力しなければ実現できることではないということを思い出そう。
