「華」短歌会100号記念文化講演会(前)(2015/08/10)
岡野弘彦先生には、いろんな意味(その年齢、碩学、ほとばしる情熱など)で圧倒され続けた半日だった。歌人としては先生に引けを取らない大御所の伊藤一彦先生も、岡野先生を前にしては小さく見える。それほどまでに存在感の大きさが際立って思えたのである。
昼の13時から「華」短歌会100号記念文化講演会が黎明館で開催され、その夜18時から吹上荘で懇親会も開かれた。華短歌会は平成2年に川涯利雄先生により創刊された短歌会であるが、平成22年からは現在の森山良太先生が代表を引き継いでいる。私は歌を詠んだことはなく華短歌会とは特別な関係はないのだが、南九州病院時代に川涯先生と「Viewの会」で一緒に活動していた縁もあり、「華」を毎号送ってもらっている。
さて記念会はまず森山代表の気合の入った挨拶のあと、伊藤先生の「現代と短歌~現代を生きるいのちの歌」、そして15分ほどの休憩をはさんで岡野先生による「短歌が一番輝いていた時代」へと続いた。
伊藤先生は、歌は「いのち」の表現であり、心の「華」であり、恋と人の死にまつわるものが多いこと、「いのち」のいは息をするという意味で、ちは血にも通じるスピリチュアルなものであることなど述べられた。そのあと、古事記のトヨタマビメや山幸彦に始まって、万葉集の倭大后、西行、和泉式部、佐々木信綱、与謝野晶子、斉藤茂吉、柳原白蓮、北原白秋、若山牧水、斉藤史、塚本邦雄、上田三四二、岡野弘彦、佐々木幸綱、河野裕子、小島ゆかり、水原紫苑、そして自分の歌などを次々と紹介された。先生は宮崎県の出身で、宮崎市で薬局を家業とする家に生まれ、早稲田大学の哲学科を卒業されている。有名な歌人で、今まで読売文学賞、迢空賞、斎藤茂吉賞など多数の受賞歴があり、現在は若山牧水記念文学館館長である。いつも感じることだが先生は話しぶりも、かねての振る舞いも、えらぶらず、謙虚で、親しみやすい雰囲気を持っておられる。
岡野先生の講演は15時ちょうどに始まった。略歴がパンフレットに書かれており、これまでにも何度も講演を聴いたことがあった。1924年に三重県の山村にある南北朝時代から続く神主の家に生まれた(懇親会でも話されていたが、「昭和20年1月、特別攻撃隊に岩崎という友達と二人で志願したのですが、戸籍が必要になり、親に知られてしまいました。東京に飛んできて、一晩説得されました。『おまえが死んだら、神主の家が途絶えてしまう』と。やむなく断念しました。岩崎はその年の4月に沖縄で戦死しました。明日は知覧の特攻記念館で遺品が見つかったという知らせを受けましたので行くつもりです」としんみりと話されていた)。国学院大学(川涯、森山両先生も同大学の卒業で師弟関係にある)卒業後、昭和21年より折口信夫(釈迢空)の家に起居し、その没年(28年)まで師事されたことは有名な話である。昭和54年から歌会始選者、昭和58年から宮内庁御用掛(平成19年まで)。日本芸術院賞で2013年には文化功労者に選ばれている。
1924年生まれというと、91歳ということになる。一本杖をつきながら部台に上がる姿を見て、立って講演の方は大丈夫だろうかという心配はすぐに杞憂に終わった。張りのある声で、次第に熱を帯びて、元気のある張りのある声で、なんと17時過ぎまでぶっ通しで話された。姿勢も崩れることなく、最期の方では杖も放り出しておられた。あらかじめ時間は心得ていたみたいだが、「伊藤さんの講演を聞いていて、一時間半あったら相当しゃべれると思っていたら、もうこんな時間ですか。戦争のことなど、最初の部分が少し長かったかな」と茶めっ気に言いながら、豊富で的確な語彙と時折ユーモアも交えた講演に、さすがに一流は違うと思うことだった。
昼の13時から「華」短歌会100号記念文化講演会が黎明館で開催され、その夜18時から吹上荘で懇親会も開かれた。華短歌会は平成2年に川涯利雄先生により創刊された短歌会であるが、平成22年からは現在の森山良太先生が代表を引き継いでいる。私は歌を詠んだことはなく華短歌会とは特別な関係はないのだが、南九州病院時代に川涯先生と「Viewの会」で一緒に活動していた縁もあり、「華」を毎号送ってもらっている。
さて記念会はまず森山代表の気合の入った挨拶のあと、伊藤先生の「現代と短歌~現代を生きるいのちの歌」、そして15分ほどの休憩をはさんで岡野先生による「短歌が一番輝いていた時代」へと続いた。
伊藤先生は、歌は「いのち」の表現であり、心の「華」であり、恋と人の死にまつわるものが多いこと、「いのち」のいは息をするという意味で、ちは血にも通じるスピリチュアルなものであることなど述べられた。そのあと、古事記のトヨタマビメや山幸彦に始まって、万葉集の倭大后、西行、和泉式部、佐々木信綱、与謝野晶子、斉藤茂吉、柳原白蓮、北原白秋、若山牧水、斉藤史、塚本邦雄、上田三四二、岡野弘彦、佐々木幸綱、河野裕子、小島ゆかり、水原紫苑、そして自分の歌などを次々と紹介された。先生は宮崎県の出身で、宮崎市で薬局を家業とする家に生まれ、早稲田大学の哲学科を卒業されている。有名な歌人で、今まで読売文学賞、迢空賞、斎藤茂吉賞など多数の受賞歴があり、現在は若山牧水記念文学館館長である。いつも感じることだが先生は話しぶりも、かねての振る舞いも、えらぶらず、謙虚で、親しみやすい雰囲気を持っておられる。
岡野先生の講演は15時ちょうどに始まった。略歴がパンフレットに書かれており、これまでにも何度も講演を聴いたことがあった。1924年に三重県の山村にある南北朝時代から続く神主の家に生まれた(懇親会でも話されていたが、「昭和20年1月、特別攻撃隊に岩崎という友達と二人で志願したのですが、戸籍が必要になり、親に知られてしまいました。東京に飛んできて、一晩説得されました。『おまえが死んだら、神主の家が途絶えてしまう』と。やむなく断念しました。岩崎はその年の4月に沖縄で戦死しました。明日は知覧の特攻記念館で遺品が見つかったという知らせを受けましたので行くつもりです」としんみりと話されていた)。国学院大学(川涯、森山両先生も同大学の卒業で師弟関係にある)卒業後、昭和21年より折口信夫(釈迢空)の家に起居し、その没年(28年)まで師事されたことは有名な話である。昭和54年から歌会始選者、昭和58年から宮内庁御用掛(平成19年まで)。日本芸術院賞で2013年には文化功労者に選ばれている。
1924年生まれというと、91歳ということになる。一本杖をつきながら部台に上がる姿を見て、立って講演の方は大丈夫だろうかという心配はすぐに杞憂に終わった。張りのある声で、次第に熱を帯びて、元気のある張りのある声で、なんと17時過ぎまでぶっ通しで話された。姿勢も崩れることなく、最期の方では杖も放り出しておられた。あらかじめ時間は心得ていたみたいだが、「伊藤さんの講演を聞いていて、一時間半あったら相当しゃべれると思っていたら、もうこんな時間ですか。戦争のことなど、最初の部分が少し長かったかな」と茶めっ気に言いながら、豊富で的確な語彙と時折ユーモアも交えた講演に、さすがに一流は違うと思うことだった。
