曽我どんの傘焼き(2015/08/05)
「曽我どんの傘焼き」という伝統行事は、鹿児島の夏の夜を彩る風物詩として地元では有名なものだが、私は今まで実物はみたことはなかった。ところが今年初めて、孫と一緒に観戦する機会を得た。
7月25日(土)、東京で日本病院会の理事会に出席し、鹿児島市に19時過ぎに帰りついた。丁度この日は山口から娘と孫の芽生ちゃんが帰って来ているはずで、携帯から電話するとアミュプラザで食事した後、会場の甲突川河畔に歩いている途中だという。そこで近くの三平ラーメンを食べ、甲突川河畔を平田橋から西田橋、高麗橋へと歩いて20時過ぎに、MBC南日本放送横の特設会場近くで落ち合うことができた。スマートフォンの威力である。
会場の河川敷には特別の台座が作られ、川の両岸には見物客が大勢押しかけている。台座から少し離れた河川敷の、コンクリートの階段に腰掛けて見物することにした。日も落ちて周りはすっかり暗闇となっているが、台座だけはライトで照らされている。剣舞のあと、ちょうど自顕流の演武が行われていた。その後しばらくして傘焼き隊が勢ぞろいし、保存会会長からこの行事の説明などが鹿児島弁で行われた。
会長の説明とインターネット情報なども調べると次のようなことになる。
この祭りは鹿児島では薩摩藩独特の「郷中(ごじゅう)教育」という教育制度との関係で開催されていたということで、曽我兄弟は鹿児島とは縁もゆかりもないのに、という疑問が解き明かされる。
薩摩藩では子供達を「稚児(チゴ)」「二才(ニセ)」「兄(アニョ)」と分け、年下の者は年上の者に従い、年上の者は年下の者に教育をし、武士としての教養、人徳、武芸などを学び人間性を磨いた。そこで教えたものは、1.「主君に対する忠」、 2.「親に対する孝」、3.尚武(武術・武事により徳を尊ぶ)であった。子供達は「郷」ごとに集まり、身体を鍛え勉学に励んだ。その教育の一環として「曽我兄弟による敵夜討ちの物語」が用いられたのである。
その物語とは1193(鎌倉時代)に相模国の曽我兄弟(十郎祐成と五郎時致)が,父の仇討ちを遂げる際,たいまつの代わりに雨傘を燃やしたという。彼らが成人し、父の仇討ちを成し遂げ時は、すでに17年の歳月が流れていた。その長きにわたり、親の事を忘れずついに仇を討ったことが、親への孝を教える教材として用いられたのである。
鹿児島ではいつからこの行事が始まったのかは定かでないが,江戸時代の1836年には行われたという記録が残っているそうである。旧暦の5月28日が近づくと、子供達が家々をまわり、古くなった唐傘を集めて甲突川や磯の浜に持ち寄り、うずたかく積み上げ、辺りが宵の闇に包まれる頃火を放ったそうだ。唐傘は防水のために油が塗ってあったため、その炎は高く燃え上がり夜空を焦がした
さてこの夜、20時30分ごろ、白い締め込みと赤い陣羽織に身をつつんだ「ニセ」や「稚児」が松明をかざして「かかり」の大声と共に、孟宗竹に色とりどりの傘で覆われたやぐらの下に火が放たれた。周りの明かりも消されているので漆黒の闇がしばらく続いたのち、やぐらのてっぺんから白い煙が立ちはじめ、それに続いて赤い火柱が立ち昇っていった。やぐらは火に包まれ、そこに若者たちが用意していた傘を投げ込むと、火の粉が舞い孟宗竹が勢いよくはじけ破裂音も夜の闇に響き渡る。東からの風にあおられて、火の粉が上流の方に流れていく。私は最初の経験だったが、天気も良く、しばし夏の暑さも忘れさせてくれた。芽生ちゃんも驚きの表情で、じっと火に包まれたやぐらの方を見つめていた。
7月25日(土)、東京で日本病院会の理事会に出席し、鹿児島市に19時過ぎに帰りついた。丁度この日は山口から娘と孫の芽生ちゃんが帰って来ているはずで、携帯から電話するとアミュプラザで食事した後、会場の甲突川河畔に歩いている途中だという。そこで近くの三平ラーメンを食べ、甲突川河畔を平田橋から西田橋、高麗橋へと歩いて20時過ぎに、MBC南日本放送横の特設会場近くで落ち合うことができた。スマートフォンの威力である。
会場の河川敷には特別の台座が作られ、川の両岸には見物客が大勢押しかけている。台座から少し離れた河川敷の、コンクリートの階段に腰掛けて見物することにした。日も落ちて周りはすっかり暗闇となっているが、台座だけはライトで照らされている。剣舞のあと、ちょうど自顕流の演武が行われていた。その後しばらくして傘焼き隊が勢ぞろいし、保存会会長からこの行事の説明などが鹿児島弁で行われた。
会長の説明とインターネット情報なども調べると次のようなことになる。
この祭りは鹿児島では薩摩藩独特の「郷中(ごじゅう)教育」という教育制度との関係で開催されていたということで、曽我兄弟は鹿児島とは縁もゆかりもないのに、という疑問が解き明かされる。
薩摩藩では子供達を「稚児(チゴ)」「二才(ニセ)」「兄(アニョ)」と分け、年下の者は年上の者に従い、年上の者は年下の者に教育をし、武士としての教養、人徳、武芸などを学び人間性を磨いた。そこで教えたものは、1.「主君に対する忠」、 2.「親に対する孝」、3.尚武(武術・武事により徳を尊ぶ)であった。子供達は「郷」ごとに集まり、身体を鍛え勉学に励んだ。その教育の一環として「曽我兄弟による敵夜討ちの物語」が用いられたのである。
その物語とは1193(鎌倉時代)に相模国の曽我兄弟(十郎祐成と五郎時致)が,父の仇討ちを遂げる際,たいまつの代わりに雨傘を燃やしたという。彼らが成人し、父の仇討ちを成し遂げ時は、すでに17年の歳月が流れていた。その長きにわたり、親の事を忘れずついに仇を討ったことが、親への孝を教える教材として用いられたのである。
鹿児島ではいつからこの行事が始まったのかは定かでないが,江戸時代の1836年には行われたという記録が残っているそうである。旧暦の5月28日が近づくと、子供達が家々をまわり、古くなった唐傘を集めて甲突川や磯の浜に持ち寄り、うずたかく積み上げ、辺りが宵の闇に包まれる頃火を放ったそうだ。唐傘は防水のために油が塗ってあったため、その炎は高く燃え上がり夜空を焦がした
さてこの夜、20時30分ごろ、白い締め込みと赤い陣羽織に身をつつんだ「ニセ」や「稚児」が松明をかざして「かかり」の大声と共に、孟宗竹に色とりどりの傘で覆われたやぐらの下に火が放たれた。周りの明かりも消されているので漆黒の闇がしばらく続いたのち、やぐらのてっぺんから白い煙が立ちはじめ、それに続いて赤い火柱が立ち昇っていった。やぐらは火に包まれ、そこに若者たちが用意していた傘を投げ込むと、火の粉が舞い孟宗竹が勢いよくはじけ破裂音も夜の闇に響き渡る。東からの風にあおられて、火の粉が上流の方に流れていく。私は最初の経験だったが、天気も良く、しばし夏の暑さも忘れさせてくれた。芽生ちゃんも驚きの表情で、じっと火に包まれたやぐらの方を見つめていた。
