小学生にお話することに(前)(2015/09/09)
9月2日、薩摩川内市で重症難病ネットワーク協議会主催の研修会で講演した後、夕方南風病院に立ち寄ると、机の上に「松原小学校(南九州市立)から電話があった」という書置きである。早速電話をすると、東校長先生から「明日、9時から20分ほどでもいいですから生徒たちに、何かお話していただけませんか」というものだった。二つ返事で「喜んで」と返事したまではよかったが、「OKの返事はしたものの、小学生に何を話すのか」と思案しながら、「花より団子」ととりあえず「かるかん饅頭」を配ろうと明石屋に向かった(明日朝早くは開いていないだろうから)。全校生徒が16人と聞いていたので、先生方の分も含めても40個あったら大丈夫だろうと、この辺りはなぜか用心深い。
「どうして、このようなことになってしまったのか」にはいくつかの「伏線」があり、説明を加えたい。
昨年8月、従兄の「お別れの会」があるということで、頴娃町の斎場に出かけることにした。時間があったので私が鹿児島市内に転校するまでの4年間学んだ松原小学校に寄ってみようと思い立った。日曜日だし誰もいないだろうと思っていたら、事務室から年配の男性が出てこられた。怪しまれるといけないと思って、「(怪しいものではありません)。実は50年以上前に、ここの小学校の生徒だった者で、フクナガと申します」と自己紹介をした。するとしばらく考えておられたが、「ひょっとすると、加治木養護学校の〇○さんの話された人ではないですか。そうだとすると、校長室に写真が貼ってあります」と言うのである。
南九州病院時代に長い間校医をしていたので、加治木養護には関わりのある職員は多い。校長室の鍵を開けてもらって中に入ると、壁に創立110周年記念式典での高田みずえ(元歌手)の色紙と着物姿のカラーの全身像の下に、2年ほど前に南日本新聞に掲載された人事院総裁賞の私の記事が貼ってあったのである(ところが今回訪れた時には、なぜか私の分は取り去られていたが)。事務員の方もびっくりしたようだったが、私も「意外な展開」に驚嘆したのである。
その後、校長先生には松原小学校について触れた拙著の「病む人に学ぶ」を贈ったことがあった。今回、四日市から母の法事に帰ってきた姉のお供で故郷に行くことになったので、「3日の朝、ちょっと寄らせてもらいますが、校長先生はおられますか」と電話していたのである。
3日の天気予報は昼からは晴れ間ものぞくが、朝方は雨という予報である。講演用のスライドを用意しようと思って、早朝4時過ぎに家を出た時には予報通り稲妻が走っていた。あたふたとスライドを作って、6時過ぎに病院を出発した。雨は小やみになったが、知覧峠は先日の台風のためか片側通行である。一時間半ほどで故郷の耳原部落に到着した。姉はまだ朝食中だったので、ずいぶん昔に取り壊され、今は野菜が植えられているわが家のあった場所に立つ。そこから裏山を眺めると、私が植えた2本の杉が半世紀余りを経て、今や両手でも抱えきれないほどの大木に成長している。
「どうして、このようなことになってしまったのか」にはいくつかの「伏線」があり、説明を加えたい。
昨年8月、従兄の「お別れの会」があるということで、頴娃町の斎場に出かけることにした。時間があったので私が鹿児島市内に転校するまでの4年間学んだ松原小学校に寄ってみようと思い立った。日曜日だし誰もいないだろうと思っていたら、事務室から年配の男性が出てこられた。怪しまれるといけないと思って、「(怪しいものではありません)。実は50年以上前に、ここの小学校の生徒だった者で、フクナガと申します」と自己紹介をした。するとしばらく考えておられたが、「ひょっとすると、加治木養護学校の〇○さんの話された人ではないですか。そうだとすると、校長室に写真が貼ってあります」と言うのである。
南九州病院時代に長い間校医をしていたので、加治木養護には関わりのある職員は多い。校長室の鍵を開けてもらって中に入ると、壁に創立110周年記念式典での高田みずえ(元歌手)の色紙と着物姿のカラーの全身像の下に、2年ほど前に南日本新聞に掲載された人事院総裁賞の私の記事が貼ってあったのである(ところが今回訪れた時には、なぜか私の分は取り去られていたが)。事務員の方もびっくりしたようだったが、私も「意外な展開」に驚嘆したのである。
その後、校長先生には松原小学校について触れた拙著の「病む人に学ぶ」を贈ったことがあった。今回、四日市から母の法事に帰ってきた姉のお供で故郷に行くことになったので、「3日の朝、ちょっと寄らせてもらいますが、校長先生はおられますか」と電話していたのである。
3日の天気予報は昼からは晴れ間ものぞくが、朝方は雨という予報である。講演用のスライドを用意しようと思って、早朝4時過ぎに家を出た時には予報通り稲妻が走っていた。あたふたとスライドを作って、6時過ぎに病院を出発した。雨は小やみになったが、知覧峠は先日の台風のためか片側通行である。一時間半ほどで故郷の耳原部落に到着した。姉はまだ朝食中だったので、ずいぶん昔に取り壊され、今は野菜が植えられているわが家のあった場所に立つ。そこから裏山を眺めると、私が植えた2本の杉が半世紀余りを経て、今や両手でも抱えきれないほどの大木に成長している。
