(7)母の思いを胸に(2015/09/02)
家族葬を済ませた後、近くの兄の家に集まったが、自然な成り行きで「母の思い出」を語り合うことになった。お互いに忘れていたり知らないことが多く、時間の過ぎるのを忘れて話が弾んだ。普通の葬儀だと会葬者への挨拶などで忙しくて、とてもこのような時間の余裕は持てないだろうから家族葬ならではである。
私はこれまで母を数学に強い理系人間だと思っていたし、本人も自認していた。ところが弟の娘が医学部に合格した時には大変に喜んで、巻紙に筆でしたためたお祝いの手紙を送ってくれたという。姪はいまでも大切にとっており、(スマートフォンで撮ったものを見せてもらったが)さすがに書道の師範、素晴らしい筆跡である。内容も「三つの涙(妊娠、出産、そして合格の時のそれぞれの涙)」について触れており、しなやかで品格の高い内容になっていた。
私についての情報で今回思い出したのは、中・高校時代に成績を両親にはあまりみせなかった(もうすっかり忘れていたが、そういえばそうだったかな)ことである。「あんちゃん(兄さん)のいない時に、おい(弟)を連れて机の引き出しを開けて、『ヒデトシは几帳面だから、きちんと気づかれないように戻さないと』と言いながら、点数をチェックしたこともあったのだよ」という。「几帳面とは、今の机の上の散らかしようからは信じられない」と、みんなで爆笑した。また学校の成績以外でも、「運動会など来なくていい」などと、親が学校のことに「干渉」することを嫌っていた。若者特有の突っ張りと、「ゴーイング・マイ・ウェイ」を貫きたかったのだろうか。ただ母はそれを寂しく思っていたようで、「運動会など気づかれないように隠れて見ていたこともあったよ」と、これも初めて知った話である。
姉は「戦後はどこの家も貧しかったけど、自分の家は特別貧しい家だと思っていた。でも今考えてみれば、父は教職で母は農業で食事には困らなかったはずで、また田舎の家は母の親父さんが材木を提供して建ててくれていたことなどを考えると、格別貧しいことはなかったはずなのに・・・」という話になった。これもまた「子どもたちはできる限り質素に育てた方がいい」という教育方針があったのかも知れない。そして姉は「自分は小さいころは体が弱くて、よく熱を出していた。目を覚ますと、母が枕元で夜中ずっと額にタオルをあててくれていた。昼は農業で疲れていただろうに」と、母の優しい一面をしんみりと振り返っていた。
また弟が出水で医院を開業したときには、殊の外喜んだという。母の弟と姉の子どもが郷里で開業していたこともあって、自分の子どもも一人ぐらいは開業させたいという思いが強かったようである。そのような意味では弟は親孝行したことになる。
亡くなってから知る親の偉さと、子どもたちへの深い思いやりである。出棺の時に兄が挨拶したように「浄土という世界があるとすれば、40年以上前に先だった親父との再会を果たしてほしい」とは残された家族みんなの願いである。そして母はいつまでも私たち家族の心の中に、しっかりと生き続けている(合掌)。
私はこれまで母を数学に強い理系人間だと思っていたし、本人も自認していた。ところが弟の娘が医学部に合格した時には大変に喜んで、巻紙に筆でしたためたお祝いの手紙を送ってくれたという。姪はいまでも大切にとっており、(スマートフォンで撮ったものを見せてもらったが)さすがに書道の師範、素晴らしい筆跡である。内容も「三つの涙(妊娠、出産、そして合格の時のそれぞれの涙)」について触れており、しなやかで品格の高い内容になっていた。
私についての情報で今回思い出したのは、中・高校時代に成績を両親にはあまりみせなかった(もうすっかり忘れていたが、そういえばそうだったかな)ことである。「あんちゃん(兄さん)のいない時に、おい(弟)を連れて机の引き出しを開けて、『ヒデトシは几帳面だから、きちんと気づかれないように戻さないと』と言いながら、点数をチェックしたこともあったのだよ」という。「几帳面とは、今の机の上の散らかしようからは信じられない」と、みんなで爆笑した。また学校の成績以外でも、「運動会など来なくていい」などと、親が学校のことに「干渉」することを嫌っていた。若者特有の突っ張りと、「ゴーイング・マイ・ウェイ」を貫きたかったのだろうか。ただ母はそれを寂しく思っていたようで、「運動会など気づかれないように隠れて見ていたこともあったよ」と、これも初めて知った話である。
姉は「戦後はどこの家も貧しかったけど、自分の家は特別貧しい家だと思っていた。でも今考えてみれば、父は教職で母は農業で食事には困らなかったはずで、また田舎の家は母の親父さんが材木を提供して建ててくれていたことなどを考えると、格別貧しいことはなかったはずなのに・・・」という話になった。これもまた「子どもたちはできる限り質素に育てた方がいい」という教育方針があったのかも知れない。そして姉は「自分は小さいころは体が弱くて、よく熱を出していた。目を覚ますと、母が枕元で夜中ずっと額にタオルをあててくれていた。昼は農業で疲れていただろうに」と、母の優しい一面をしんみりと振り返っていた。
また弟が出水で医院を開業したときには、殊の外喜んだという。母の弟と姉の子どもが郷里で開業していたこともあって、自分の子どもも一人ぐらいは開業させたいという思いが強かったようである。そのような意味では弟は親孝行したことになる。
亡くなってから知る親の偉さと、子どもたちへの深い思いやりである。出棺の時に兄が挨拶したように「浄土という世界があるとすれば、40年以上前に先だった親父との再会を果たしてほしい」とは残された家族みんなの願いである。そして母はいつまでも私たち家族の心の中に、しっかりと生き続けている(合掌)。
