Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

時代を共有したある女性の死(2)(2015/10/07) 

さてインターネットの検索機能を利用して、あるキーワードで検索していたら、たまたまこの女性に関する私のランがヒットした。数年前、私がまだ南九州病院で働いていた頃、緩和ケア棟で、秋を素足で駆け抜けるようにして浄土へと旅立った女性である。当時の文章に多少の修正を加えて供覧したい。
  昭和から平成への時代を自らの信じるところに従って、そして確固たる自我のままに親孝行な女性が静かにあの世へと旅立った。同じ病院で働いた期間があったといっても、さほど親しい間柄ではなかったが、同時代を共有したということもあって、亡くなる前の2ヶ月間ほどを身近に寄り添うことができた。彼岸花からコスモスの咲く短い秋を、緩和ケア棟で過ごしたことになる。そういえば、季節はいつのまにかコスモスに移っているが、風にそよぐコスモスを見ていると何かしら寂しく感じられる。
  「もうこの世にそんなに未練はありませんし、がんでこのような死に方ができるのは本心からよかったと思っているのですよ 」と、Yさんはまだ60歳をちょっと過ぎたばかりだというのに淡々と話される。窓の向こうには静かな錦江湾と桜島が開ける緩和ケア棟の一室である。朝の看護部長の報告で入院されたことを聞いたので、9月20日の初秋の昼下がり、見舞いがてら訪問してみた。
Yさんはベッドに座り、私は部屋の備え付けの椅子に腰を下ろしている。10年ほど前に隼人町の霧島病院との統合により南九州病院に転勤となったが、お母さんの介護のために2年あまり働いた後、早期退職されたようだ。私はその後お会いする機会もなかったので、久しぶりの再会ということになる。
  「看護師として働いていたときから、がんになったら化学療法などは一切しないと決めていましたので、末期の状態で見つかってかえってよかったと思います。初期だったら、迷ったかもしれませんし・・・」「でも看護学校の同期の人に、こんなにお世話になるとは思っていませんでした。昨年末に食事が通らなくなってバイパス手術を受けたときにも、代わる代わる泊まりに来てくれたんですよ」という。
  実はYさんとは、私が医学部の学生時代に参加していた社会医学研究会での活動と重なるのである。当時、この研究会は部員が100人を超える大所帯(Yさんは部員ではなかった)で、霧島病院や国立病院の付属看護学校の学生まで含まれていた。そして時々、学習会などと称して看護学校まで遠征したものである。
  当時Yさんの在籍していた霧島病院の看護学校の建物は今にも崩れ落ちそうな戦前からのものだったが、学生は明るくはつらつとしていた印象を持っている。Yさんの語るところでは、一クラスが25人という小人数で、多くの学生は田舎から出てきた人が多かった。食事の時にはリヤカーで食事を取りに行ったり、一つのコッペパンをみんなで分け合って食べたこともあったという。たしかに、貧しく、それでいてみんな元気な、そのような時代だった。寮生活で仲がよく、団結心が殊の外強かったようである。実習は鹿児島市立病院などで行われたが、のんびりしていたのでよく怒られたという。先輩にあたる師長から、「後輩がほかの師長に怒られると悔しいので、先におこったんよと言われたりしてねえ」。
  「そういえば、『朽ちたおんぼろ校舎に、可憐に咲いた一輪の花のようなMさん』、今どうしているの」と聞いてみた。「やっぱり・・・でしょう。本当に彼女は目立っていたのよね。かわいくてきれいで、性格もよくて。今、大分に住んでいるんだけど、私の見舞いに来てくれると思うから、そのときに先生と会えるように段取りしましょうか」と見透かされてしまっている。
Mさんは大口の明光学園の出身で、清楚な感じが印象に残っている。もちろん、当時、個人的に話をした記憶はないのだが、妙に気になっている。壁にマリア様の写真が置かれていたが、きっとMさんが持ってきてくれたものだろう。「どうせなら、この部屋で同窓会でも開くことができたらいいのだけど」と話は弾んでいく。