Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

時代を共有したある女性の死(3)(2015/10/08) 

Yさんは看護学校を卒業したのち上京し東京の国立小児病院に就職したが、なじめずに1年足らずで辞めてしまう。そして「保健師になりたい」との思いで逃げるようにして滋賀県立保健師学校に進学した。その後、伊豆長岡にあった都立の病院で3年足らず働いた。その病院は子ども主体の病院だったようで、当初の目的だった小児結核の患者が少なくなってさまざまな障害を持つ子供たちが入院していたという。温泉もあり保育士さんなどとも仲良くなり、楽しく仕事ができていたが、昭和49年7月に父親が病気になったこともあって帰郷し、霧島病院に再就職した。
能力も高くしっかりものにみえるし、「どうして師長さんにならなかったの」と聞いてみると、「自分は強い性格だから管理者には向かない。自分のしたことは自分で責任のとれる一看護師として働きたかった」とキャリアアップは希望しなかったという。確かに、こうと思ったことは、容易に曲げない頑固な一面もあったようである。そして青年海外協力隊で海外でも2回ほど働いたり、またアフガン孤児の里親制度にも応募したりなど、積極的な面も持ち合わせていたようである。
 平成12年に南九州病院に転勤したのちは手術部などで働いていたが、母親が認知症になったために早期退職した。日本古来の伝統である「親孝行精神」がまだ健全だったといえる世代である。
 数日後に部屋を訪ねると友人のKさん(元南九州病院の職員)も来られていて、「11月27日が誕生日だから、その日に死ぬのも悪くないわね」とYさんが言う。「そんなこと言って、まだ大丈夫よ。お婆さんの墓参りには私がおんぶしていってあげるから」とKさん。
 「あのフェルメールの真珠の首飾りの少女、どうしたの」と聞くと、「神戸展に一緒に行こうと約束していたのだけど・・・、友達が買ってきてくれたの」という。マリア様にフェルメールの絵、おばあちゃんの遺影、そして姪御さんと思われる写真などが並んでいる。食事は口からはほとんどとれなくなっているが、状態は落ち着いていたので他愛ない話をしながら部屋を後にする。
 10月5日、私は機構本部の役員会に出席のために上京していたが、月曜日にパソコンをあけると、「おはようございます。Yさんより伝言を預かりました。大分のMさんが到着するそうです。ところが6日には、「おはようございます。5日にYさんがみえました。残念ながら先生とすれ違いとなりました。また、いつか会いに来ますからとのことでした。写真を撮りましたので添付しますね。調整が上手く出来なくてすみませんでした。しかし決して計画的犯行ではありませんので、お許し下しませ」とは、緩和ケア棟の師長からのメールである。
 「年々歳々花あいにたり、歳々年々人同じからず、という漢詩を思い出します。かって美しい花は、そうでなくなるのも早いのでしょう。師長さんはラッキーでしたね。深い意味はありません」と師長さんにメールを。「先生、また、もう・・・」と言われそう。とはいえ、45年ぶりにみる写真だったが、年相応に落ち着いた感じでいい歳のとりかたをされていたMさんである。