Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

川嶋先生のご逝去(前)(2015/11/30) 

11月17日、国立病院機構南九州病院の川畑副院長、続いて広津院長から相次いで、「川嶋望先生(元南九州病院院長)のご逝去」の知らせを受けた。先生には南九州病院時代、7年間にわたって副院長として仕えたことになる。
 先生は長崎大学のご出身で有能な外科医だったと聞いているが、当時の武見医師会長にスカウトされて、厚労省に入省された。いつか酒の席で聞いたことであるが(そのため正確性には欠ける)、お生まれは長崎県であるが父親が海軍の軍医で、終戦まで江田島に住んでおられた。敗戦により父親の故郷の和歌山県に移り住んだということだった。
小さい頃に水耕栽培に興味をもち、農業高校に進学した。そこから島根大学教養課程を経て長崎大学の医学部に編入されたようである。当時はコメの増産が国家プロジェクトだった時代であり、水耕栽培こそ理にかなっていると力説されていたが、米余りの現状を考えると先見の明があったのかなかったのか微妙なところである。
 また長崎大学の同級生には「地域包括ケアシステム」を提唱 したことで有名な山口昇先生(みつぎ総合病院の名誉院長で、南九州病院でも講演してもらったことがある)や臨床研修や病院管理で有名な岩崎栄先生がおられ、三羽烏といわれていたということだった。もちろん厚生省にも人脈があり、私も何人か若手の医系技官を紹介してもらったことがある。その一人が現在東京医科歯科大学教授の河原先生で、講演でお呼びした翌日、一緒にゴルフしたことなど楽しい思い出である(現在ではできないことだが、当時はまだ緩い時代であった)。
 その後、九州医務局長や済生会本部の理事などを歴任されて、平成3年6月から南九州病院の院長に就任された。この時まで私とは全く接点はなかったが、ウマが合ったのかその後は二人三脚で楽しく仕事ができたと思っている。怒られたことも、また不愉快な印象を受けたこともなかった。当時、国立病院は組合活動が盛んな時代で、特に南九州病院は九州ブロックでも御三家と称されるほど活発で、それに反比例するかのように経営は芳しくなかった。先生は厚労省で培った医療経営のやり方を南九州病院にも導入され、次第に経営を好転させてその後の黒字基調に乗せた功労者といえる。組合交渉でも医局会でもきちんと事前にメモを用意しており、発言もそこから逸脱することはなかった。私もこの部分も学びたいと思ったが、15年間の院長生活では「出たとこ勝負」であらかじめ発言内容を用意したことはなかった。
 派手なことはお嫌いで、誠実に地道な仕事を尊ばれ、結果や数字で物を言わせる手法をとられた。この時代の多くの男性がそうであったように、口やかましく教育することはなく、背中を見て覚えなさいというようなタイプであった。
 鹿児島に来られてしばらくしたころに、終の棲家を姶良町(現在の姶良市)に求められた。偶然にも私が長いこと在宅療養を通して懇意になっていた方の隣で、不思議なご縁を感じたものである。