ふがいい(4)(2015/12/24)
(4)医療機能評価受審時の危機
南九州病院時代、2回医療機能評価機構の審査を受けた。最初が2005年(平成17年7月)で、2回目が2010年(平成22年12月)である。来年1月、第三回目の受審だということである。
第一回目の受審は必死だった。というのは当時、緩和ケア病棟の開設の条件に機能評価の認定を受けていることが条件となっていたからである。一回で合格できないと、開設が遅れて経営に直結する。
サーベイヤーの巡視の前には、周到な準備をしたが、調理室の環境、特に温度(7月20日と真夏)を最も心配していた。衛生面では清潔を心掛けていたが設備が古く、夏は室内の温度がよく下がらなかった。そこで当日の調理では熱を通すような献立は避けて、クーラーもフル回転していた。
ランを読むと、「予想通りというか、暑いですね。曇って、もう少し低めの気温を期待していたけど、世の中のこと、思い通りには行かないのも世の常です。・・・
昨日の最大の安堵は、調理室の温度がなんと23度であったということ。一瞬、耳を疑って、『温度計が壊れていたんじゃない』と叫んでしまいました。外気温は35度ぐらいでしたので、まあ30度以下なら許してもらえるだろうと神頼みの心境でした。ところがサーベイヤーも『涼しいですね』で済んだとの事。かねて信心深くない私も、病院に来る前に、仏壇に一礼して来ました。実は7月20日は、33年前に亡くなった父の命日にあたっていました・・・
筋ジス病棟では、リーダーの方と30分ほど四方山話をしました。そこにテッペイ君(福山型筋ジストロフィーで知的障害がある)が電動車椅子で通りかかり、『このおばさん、きれい』『先生、かっこいい』と話しかけて通り過ぎました(前日に、テッペイは正直に思ったことを口に出すので、サーベイヤーにかわいいとか言ってはいけないよ、きっとおばさんのはずだから、と言いくるめていたからでしょう)。でも結果的にはテッペイの機転で話も盛り上がり、筋ジスの話から身の上話まで話し込んでしまいました。
再審査となった2回目は2010年である。
この時に最大の危機は、当時南九州病院はまだ紙カルテの時代であったが、サーベイヤーから要求されたカルテが見つからなかったときである。
この時の模様を次のようにランで記している。
順風満帆、いい雰囲気で二日目も終わろうとしていたころ、「大事件」が発覚した。ちょうど私はサーベイヤーを連れて放射線部門の案内をしていた時に、事務部長から「カルテが2冊紛失していることが分かったそうです」という思いがけない事実を知らされた。「みんなで手分けして探していますが、見つからないようです」という。私は「まあ、仕方ないなあ、医療事故で人が亡くなったわけでもないのだから」と、半分はあきらめて開き直ることにした。リーダーの話では、「カルテが出て来なければC評価(認定されない)もやむを得ないかもしれない」ということである。そこで病院をあげて、みんなで必死に探したところ、夕方6時30分頃、無事2冊とも見つかった!「窮すれば通ず」というのか、頑張っているところに神が味方してくれたということだろう。
見つかったときの診療録管理士の緒方さんと1病棟師長の稲留さんの、美しい涙を忘れることはできない。二人とも責任感の塊のような女性なので、もし出てこなかったときのことをひそかに心配していた。受審が全て終わってから、捜しつけた殊勲の女神、原田師長の話、「私は片づける時には、物を動かす習性があるのです」という、またとない主婦の習性に救われたのである。その場所は何度もたくさんの人が捜した場所だったが、棚を動かしたらその隙間に2冊のカルテが挟まれていたそうである。看護部長によると、「2階にいたら歓声がしたので、きっと見つかったんだなと思いました」という。病棟の患者さんたちは、「スワ何事ぞ!」とびっくりされたことだろう。
南九州病院時代、2回医療機能評価機構の審査を受けた。最初が2005年(平成17年7月)で、2回目が2010年(平成22年12月)である。来年1月、第三回目の受審だということである。
第一回目の受審は必死だった。というのは当時、緩和ケア病棟の開設の条件に機能評価の認定を受けていることが条件となっていたからである。一回で合格できないと、開設が遅れて経営に直結する。
サーベイヤーの巡視の前には、周到な準備をしたが、調理室の環境、特に温度(7月20日と真夏)を最も心配していた。衛生面では清潔を心掛けていたが設備が古く、夏は室内の温度がよく下がらなかった。そこで当日の調理では熱を通すような献立は避けて、クーラーもフル回転していた。
ランを読むと、「予想通りというか、暑いですね。曇って、もう少し低めの気温を期待していたけど、世の中のこと、思い通りには行かないのも世の常です。・・・
昨日の最大の安堵は、調理室の温度がなんと23度であったということ。一瞬、耳を疑って、『温度計が壊れていたんじゃない』と叫んでしまいました。外気温は35度ぐらいでしたので、まあ30度以下なら許してもらえるだろうと神頼みの心境でした。ところがサーベイヤーも『涼しいですね』で済んだとの事。かねて信心深くない私も、病院に来る前に、仏壇に一礼して来ました。実は7月20日は、33年前に亡くなった父の命日にあたっていました・・・
筋ジス病棟では、リーダーの方と30分ほど四方山話をしました。そこにテッペイ君(福山型筋ジストロフィーで知的障害がある)が電動車椅子で通りかかり、『このおばさん、きれい』『先生、かっこいい』と話しかけて通り過ぎました(前日に、テッペイは正直に思ったことを口に出すので、サーベイヤーにかわいいとか言ってはいけないよ、きっとおばさんのはずだから、と言いくるめていたからでしょう)。でも結果的にはテッペイの機転で話も盛り上がり、筋ジスの話から身の上話まで話し込んでしまいました。
再審査となった2回目は2010年である。
この時に最大の危機は、当時南九州病院はまだ紙カルテの時代であったが、サーベイヤーから要求されたカルテが見つからなかったときである。
この時の模様を次のようにランで記している。
順風満帆、いい雰囲気で二日目も終わろうとしていたころ、「大事件」が発覚した。ちょうど私はサーベイヤーを連れて放射線部門の案内をしていた時に、事務部長から「カルテが2冊紛失していることが分かったそうです」という思いがけない事実を知らされた。「みんなで手分けして探していますが、見つからないようです」という。私は「まあ、仕方ないなあ、医療事故で人が亡くなったわけでもないのだから」と、半分はあきらめて開き直ることにした。リーダーの話では、「カルテが出て来なければC評価(認定されない)もやむを得ないかもしれない」ということである。そこで病院をあげて、みんなで必死に探したところ、夕方6時30分頃、無事2冊とも見つかった!「窮すれば通ず」というのか、頑張っているところに神が味方してくれたということだろう。
見つかったときの診療録管理士の緒方さんと1病棟師長の稲留さんの、美しい涙を忘れることはできない。二人とも責任感の塊のような女性なので、もし出てこなかったときのことをひそかに心配していた。受審が全て終わってから、捜しつけた殊勲の女神、原田師長の話、「私は片づける時には、物を動かす習性があるのです」という、またとない主婦の習性に救われたのである。その場所は何度もたくさんの人が捜した場所だったが、棚を動かしたらその隙間に2冊のカルテが挟まれていたそうである。看護部長によると、「2階にいたら歓声がしたので、きっと見つかったんだなと思いました」という。病棟の患者さんたちは、「スワ何事ぞ!」とびっくりされたことだろう。
