Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

シクラメン(2015/12/09) 

ちょうど40年ほど前、1975年(昭和50年)の師走の街には布施明の歌う「シクラメンのかほり」が至る所で流れていた(小椋佳作詞・作曲)。
真綿色した シクラメンほど清しいものはない 出逢いの時の 君のようです・・・
この年、私は都立府中病院に勤めており青春を謳歌できる年頃だったが、普通の日常でさして変わった思い出はない。世の中は不景気で失業者が増え、赤軍派などの人質事件のあった年である。
 さてこのシクラメンであるが、冬の鉢植えの代表格として定着している。ところが「死」「苦」との語呂合わせや花の赤色は血をイメージするということで、病院への見舞いにこの花や鉢植えを持っていく事は縁起が悪い組み合わせとされているそうである。
 日高君も鉢植えのシクラメンを何枚かグラフィックで描いている。花弁の赤と葉っぱの緑の対比、そして微妙なグラデーションを付けて立体感を表現している。
 最近よく思うことであるが、私が過ごした筋ジス病棟での30年間は、日本のそしてあの時代にしか在り得なかったユートピアだったともいえる。地域の学校で快く障碍児を受け入れなかったこと、結核の減少に伴い国立病院の病棟にも入院できる余裕がたくさんあったこと、養護学校に通う目的もあって普通の元気な(ちょっと筋肉の力が弱いだけ)子供たちが入院していたこと、そして進行の遅い成人患者との微妙ないい釣合のとれた病棟であったことなどが考えられる。背景には日本が高度経済成長の真っただ中にあったことも挙げられる。そのため病院の経営についてもあれこれ考えなくてよく、いろいろな職種が自由に自分の理想に向かって活動できた時代ではなかっただろうか。
私自身も30年間医師として過ごさせてもらったが、まだ若い筋ジス患者のさまざまな死に逝く姿に接しながら、患者さんが文字通り、自分の生き方、死に方を通していろいろなことを教えてくれたように思っている。
 なかでも、16歳で心不全のために亡くなった富満君は、天寿とは単なる体の健康(命の長さ)ばかりではないかもしれないということを、35歳で亡くなった轟木君は、不治の難病や末期のがんと告知された時に不安から逃れるすべはその日その日を「一生懸命に生きる」ことであることを、そして46歳で亡くなった日高君は筋ジス患者の「達観」とはどういうことなのかを教えてくれたように思っている。
 感謝するばかりである。