金澤一郎先生のご逝去(2016/01/22)
1月21日、日経の朝刊では「金沢一郎氏死去、元皇室医務主管 74歳」という見出しで、詳しく報じられている。(NHKニュースでも取り上げられていた)。
1月20日午後4時17分、膵臓がんのため東京都港区の病院で死去した。・・・宮内庁の要請を受け天皇、皇后両陛下の内科系の診療を担当した。1993年に皇后さまに言葉を話せない症状が表れた際の治療にあたった。2002年から約10年間、皇室医務主管に就き、天皇陛下の手術などを指揮。12年6月から侍従職御用掛も務めた。神経内科の第一人者で、パーキンソン病など難病の研究にも尽力した。日本学術会議会長も務めた。
(ここからはWikipediaを参考に)先生は日比谷高校から東京大学医学部を卒業され、1991年に東大教授、病院長、そして2002年に退官後、国立精神・神経センター研究所長、その後病院長、総長に。また2002年には日本神経学会理事長にも就任されている。
このように学問の世界のみならず、社会的にも傑出した業績をあげておられる。
私は個人的には本当にお世話になった先生で、過分にも厚労省での「大役」を仰せつかるきっかけをつくってくださったのも先生である。出身大学も違うし、直接教えを受けたこともなかったのに、どのようなきっかけで先生が「目をかけてくださった」のかよくわからない。ただ不思議な縁で結ばれており、意外な接点もあった。
もう十数年前になるが、筋ジスの関係から懇意にしていた元NHKの島村俊治アナウンサー(当時スポーツアナの世界ではピカ一で、鈴木大地や清水宏保など金メダルの放送を最も多く担当したと自慢されていた)の退職記念のパーティーの参列者の一人に金澤先生の名前を見つけたことがあった。後で聞いてみると、小学校の同級生で、「実に勉強のよくできる生徒でした」と話されていた。(昨夜、島村さんと金澤先生の思い出話を、電話ですることだった。島村さんと金澤先生は田園調布小学校で1年生から3年生まで同じクラスで、他にはあの石坂浩二も一緒だったという。金澤先生は病気をおして同窓会にも出席され、島村さんの司会で挨拶されたという。実に豪華な小学校の同窓会である)。
また先生が神経センターの病院長の時、医療安全の講演を頼まれたことがあり、その夜病院の近くで、副院長だった久野先生の三人で食事していろいろなお話し伺ったことがあった。
2013年7月から2014年1月までの間、法務省の「矯正医療の在り方に関する有識者検討会」では、金澤先生が委員長で私は委員の一人として参加した。この時も金澤先生の推薦かと思ったら、法務省に出向していた厚労省の医系技官(冨澤先生)が、たまたま私たち二人を推薦していたことが分かった。
先生との関わりで最も関係の深いものは、なんといっても厚労省の「難病対策検討委員会」である。先生は委員長として「難病法」の道筋をつけられた。2011年12月の「今後の難病対策の検討にあたって(中間的な整理)」や2013年1月「難病対策の改革について(提言)」などを指導された。2014年の初頭、ご病気がわかり委員会にも出席できなくなり、私が副委員長の立場で「難病法」の成立まで関わることとなった。
またそれまで先生がされていた厚労省の疾病対策部会長、また国立病院時代から携わっていた厚生科学審議会の委員も引きつぐことになった。
先生がご病気であることは2014年3月1日に、新潟市での難病シンポジウムに講師として招かれた時に知り心底びっくりした。私は「難病と40年~今後の日本の難病対策も含めて~」と題して講演したが、西澤先生のお話では当初金澤先生に依頼していたが来れなくなり、ピンチヒッターだということが分かったのである。
そんな事情で、難病対策委員会にも出席されなくなったので、一度は見舞いに行きたいと思っていたが、かえってご迷惑になるかもしれないと断念した。
昨年9月、意を決して手紙を書いた(「ジンザイの育成と医療安全管理」という日本病院会雑誌の別刷も同封して)。
残暑お見舞い申し上げます。いかがお過ごしでしょうか。
私も国立病院機構の南九州病院を定年退職後、現在の南風病院に異動して2年半が経ちました。この病院はDPCⅡ群に指定されているがんの急性期病院ですが、臨床研究と地域医療の向上に真剣に取り組んでいる病院です。 ご存知のように難病法も成立し、基本方針の策定も終わり、まだたくさんの課題は抱えておりますが一段落したように思います。これもとりもなおさず、先生の委員長としてのリーダーシップと見識、情熱があってのことだといつも思っております。
個人的には先生に節目節目で過分なサポートしていただき、お礼の申し上げようもございません。いつも何かご恩に報いることでもあればと思いながら、ここまで来ました。先生のことですので、その時々の職務を忠実に行うことが一番かと思っていました。本当にありがとうございます。
葛原先生から、お元気になられているとお聞きして、何よりうれしく思います。今後とも私たちを、そして難病法が難病と闘っている患者さんのためになるように見守っていてほしいと願っております。
9月8日
しばらくして自筆の丁寧なお返事を頂いた。この時期はご病状も決していい状態ではなかったかと推察できるが、自らの病気には一切触れることなく、国家プロジェクトとしての難病についての思いを語られている。私の先生への思い出として、「宝物」として大切に保存していきたい。
福永秀敏先生
ご無沙汰いたしております。
このたびは誠にご丁重なお便りと、先生のご著作の別刷をご恵送賜りありがとうございました。幾度か膝を打ちながら読ませていただきました。特にジンザイのザイが材料の材と書かれることが多いことにいつも不満をいだいてきましたので、人財と考えて行動すべきことを改めて確信した次第でございます。
ところで国のプロジェクトの評価には、必ずといって良いほど人財育成はどうであるかという項目があります。でもその評価はプロジェクトが終了して10年位経たないと本当はわからないことなのに・・・いつも不満に思っています。
最後になりましたが、難病の新しい時代がはじまりました。先生のお蔭で新しいスタートを切ることができました。心からお礼を申し上げます。
又先生のこれからの益々のご活躍をお祈りいたしております。
天候不順の折、どうぞご自愛くださいますよう。
とりあえずお礼まで。 九月二十五日 金澤
さまざまな分野での日本の正しい発展のためにも、本当に惜しい方を亡くしたと思う。私は委員会ではいつも隣の席だったので、先生の言葉や所作をつぶさに感じられる場所にいた。美智子妃が全幅の信頼を置かれるだけあって素晴らしい人格者であるとともに、時には人間的な面白味も持ち合わせたほほえましく温かみの感じられる先生だった。安らかにご浄土に。(合掌)
1月20日午後4時17分、膵臓がんのため東京都港区の病院で死去した。・・・宮内庁の要請を受け天皇、皇后両陛下の内科系の診療を担当した。1993年に皇后さまに言葉を話せない症状が表れた際の治療にあたった。2002年から約10年間、皇室医務主管に就き、天皇陛下の手術などを指揮。12年6月から侍従職御用掛も務めた。神経内科の第一人者で、パーキンソン病など難病の研究にも尽力した。日本学術会議会長も務めた。
(ここからはWikipediaを参考に)先生は日比谷高校から東京大学医学部を卒業され、1991年に東大教授、病院長、そして2002年に退官後、国立精神・神経センター研究所長、その後病院長、総長に。また2002年には日本神経学会理事長にも就任されている。
このように学問の世界のみならず、社会的にも傑出した業績をあげておられる。
私は個人的には本当にお世話になった先生で、過分にも厚労省での「大役」を仰せつかるきっかけをつくってくださったのも先生である。出身大学も違うし、直接教えを受けたこともなかったのに、どのようなきっかけで先生が「目をかけてくださった」のかよくわからない。ただ不思議な縁で結ばれており、意外な接点もあった。
もう十数年前になるが、筋ジスの関係から懇意にしていた元NHKの島村俊治アナウンサー(当時スポーツアナの世界ではピカ一で、鈴木大地や清水宏保など金メダルの放送を最も多く担当したと自慢されていた)の退職記念のパーティーの参列者の一人に金澤先生の名前を見つけたことがあった。後で聞いてみると、小学校の同級生で、「実に勉強のよくできる生徒でした」と話されていた。(昨夜、島村さんと金澤先生の思い出話を、電話ですることだった。島村さんと金澤先生は田園調布小学校で1年生から3年生まで同じクラスで、他にはあの石坂浩二も一緒だったという。金澤先生は病気をおして同窓会にも出席され、島村さんの司会で挨拶されたという。実に豪華な小学校の同窓会である)。
また先生が神経センターの病院長の時、医療安全の講演を頼まれたことがあり、その夜病院の近くで、副院長だった久野先生の三人で食事していろいろなお話し伺ったことがあった。
2013年7月から2014年1月までの間、法務省の「矯正医療の在り方に関する有識者検討会」では、金澤先生が委員長で私は委員の一人として参加した。この時も金澤先生の推薦かと思ったら、法務省に出向していた厚労省の医系技官(冨澤先生)が、たまたま私たち二人を推薦していたことが分かった。
先生との関わりで最も関係の深いものは、なんといっても厚労省の「難病対策検討委員会」である。先生は委員長として「難病法」の道筋をつけられた。2011年12月の「今後の難病対策の検討にあたって(中間的な整理)」や2013年1月「難病対策の改革について(提言)」などを指導された。2014年の初頭、ご病気がわかり委員会にも出席できなくなり、私が副委員長の立場で「難病法」の成立まで関わることとなった。
またそれまで先生がされていた厚労省の疾病対策部会長、また国立病院時代から携わっていた厚生科学審議会の委員も引きつぐことになった。
先生がご病気であることは2014年3月1日に、新潟市での難病シンポジウムに講師として招かれた時に知り心底びっくりした。私は「難病と40年~今後の日本の難病対策も含めて~」と題して講演したが、西澤先生のお話では当初金澤先生に依頼していたが来れなくなり、ピンチヒッターだということが分かったのである。
そんな事情で、難病対策委員会にも出席されなくなったので、一度は見舞いに行きたいと思っていたが、かえってご迷惑になるかもしれないと断念した。
昨年9月、意を決して手紙を書いた(「ジンザイの育成と医療安全管理」という日本病院会雑誌の別刷も同封して)。
残暑お見舞い申し上げます。いかがお過ごしでしょうか。
私も国立病院機構の南九州病院を定年退職後、現在の南風病院に異動して2年半が経ちました。この病院はDPCⅡ群に指定されているがんの急性期病院ですが、臨床研究と地域医療の向上に真剣に取り組んでいる病院です。 ご存知のように難病法も成立し、基本方針の策定も終わり、まだたくさんの課題は抱えておりますが一段落したように思います。これもとりもなおさず、先生の委員長としてのリーダーシップと見識、情熱があってのことだといつも思っております。
個人的には先生に節目節目で過分なサポートしていただき、お礼の申し上げようもございません。いつも何かご恩に報いることでもあればと思いながら、ここまで来ました。先生のことですので、その時々の職務を忠実に行うことが一番かと思っていました。本当にありがとうございます。
葛原先生から、お元気になられているとお聞きして、何よりうれしく思います。今後とも私たちを、そして難病法が難病と闘っている患者さんのためになるように見守っていてほしいと願っております。
9月8日
しばらくして自筆の丁寧なお返事を頂いた。この時期はご病状も決していい状態ではなかったかと推察できるが、自らの病気には一切触れることなく、国家プロジェクトとしての難病についての思いを語られている。私の先生への思い出として、「宝物」として大切に保存していきたい。
福永秀敏先生
ご無沙汰いたしております。
このたびは誠にご丁重なお便りと、先生のご著作の別刷をご恵送賜りありがとうございました。幾度か膝を打ちながら読ませていただきました。特にジンザイのザイが材料の材と書かれることが多いことにいつも不満をいだいてきましたので、人財と考えて行動すべきことを改めて確信した次第でございます。
ところで国のプロジェクトの評価には、必ずといって良いほど人財育成はどうであるかという項目があります。でもその評価はプロジェクトが終了して10年位経たないと本当はわからないことなのに・・・いつも不満に思っています。
最後になりましたが、難病の新しい時代がはじまりました。先生のお蔭で新しいスタートを切ることができました。心からお礼を申し上げます。
又先生のこれからの益々のご活躍をお祈りいたしております。
天候不順の折、どうぞご自愛くださいますよう。
とりあえずお礼まで。 九月二十五日 金澤
さまざまな分野での日本の正しい発展のためにも、本当に惜しい方を亡くしたと思う。私は委員会ではいつも隣の席だったので、先生の言葉や所作をつぶさに感じられる場所にいた。美智子妃が全幅の信頼を置かれるだけあって素晴らしい人格者であるとともに、時には人間的な面白味も持ち合わせたほほえましく温かみの感じられる先生だった。安らかにご浄土に。(合掌)

