けしんかぎい きばります(2016/01/21)
昨年の12月8日の南日本新聞「かお」欄に、橋口満さんという人が「かごっま弁を守るNPO法人の理事長」として取り上げられている。
読み始めると「小中学校時代は方言撲滅運動のさなか。使うと首から方言札をかけられ、家に帰るまで外せなかった」というくだりを読んで昔のことを思い出しておかしくなった。橋口さんも68歳と私と同じ年であり、私も原良小学校の時には首からカードを下げられた記憶が蘇ってきたからである。下げたカードに方言を使う度に、一つずつ「正」を書き加えたものである。当時私のカードは「正」で一杯になっていたと思うが、その後の上達ぶりから考えると「撲滅運動」の成果は半分ぐらいということになろうか。棺桶に入る時まで、鹿児島弁のイントネーションは治りそうにない。
昨年6月に相良酒造の九代目の相良栄二さん(家内の叔父)が、91歳で亡くなられた。鹿児島では珍しくなった「まともな鹿児島弁」を、イントネーションともども完璧に話せる貴重な人だった。私も鹿児島弁を理解はできるのだが、自分でしゃべるとなるとなかなか難しい。ただ鹿児島弁で話すと、きつい内容でも柔らかく感じられるのが不思議である。また標準語の同異語に置き換えた時、細かなニュアンスで異なることも多い。
2016年1月1日の南日本新聞では、「鹿児島弁離れ加速」という大見出しで、「標準語教育偏重」の影響で、鹿児島県の子どもたちの方言離れが進んでいることを報じている。県内小学校のアンケート調査で、「げんね(恥ずかしい)」や「てせ(きつい)などの正答率が一けた台だったという。また若者の方言離れも顕著で、高齢者介護の現場では、「言葉の壁」が課題となってきているそうだ。
あの司馬遼太郎が、最も印象に残る鹿児島弁は「げんねこちょ知らん」だったという。
これは「司馬遼太郎の世界(文藝春秋社、1996年)」の追悼集の中で、「司馬さんの思いで」というタイトルで仁尾一三(元新潮社編集者)が書かれている。
仁尾さんは当時小説新潮の編集者だったが、昭和39年12月に新年号の特集企画として時代小説4本を並べることになり、司馬さんに原稿を依頼した。司馬さんは昭和34年に直木賞を受賞し多忙を極めていた時期で、「いまな、いそがしいからだめやな」と一度は断られた。ところが、「ちょっと待ってや。もう一度名前をいうてくれんか」ということで、仁尾という変わった名前のお陰で原稿をもらえることになり、加えてその後、親交を深めることができたという(ちなみに鹿児島でも、仁田尾(お茶で有名)という苗字は多いが、仁尾という姓は初めて聞いた)。
ある時、「西南戦争をテーマに連載をお願いできませんか」という依頼に、「そやな、西郷さんか、うん」ということで、仁尾さんの田舎の鹿児島市を案内することになった。そこで元市長の勝目清さんにお会いしたが、この方は正確な標準語と同時に正統な薩摩言葉の伝承者としても知られる学者である。この時に司馬さんがもっとも興味を持たれたのが、薩摩に古くからある「げんねこちょ知らん」という表現だったという。
薩摩では何事にも晴れがましいことを嫌い、すべてに控えめであることを美徳としてきたが、昭和、平成の世でも、なにかといえば「げんね(恥ずかしい)」と口に出していう。そうでない人間には、「あいつは、恥ずかしさを知らん」(げんねこちょ知らん)という批判が集まることになる。「そうか、今でもこういう言葉が残っとったか」と司馬さんも嬉しそうに頷いて、その後も何かといえば、「ふふっ、あいつも、げんねこちょ知らんな」と、”司馬流アクセント”で、それは楽しそうに口にしていたという。
読み始めると「小中学校時代は方言撲滅運動のさなか。使うと首から方言札をかけられ、家に帰るまで外せなかった」というくだりを読んで昔のことを思い出しておかしくなった。橋口さんも68歳と私と同じ年であり、私も原良小学校の時には首からカードを下げられた記憶が蘇ってきたからである。下げたカードに方言を使う度に、一つずつ「正」を書き加えたものである。当時私のカードは「正」で一杯になっていたと思うが、その後の上達ぶりから考えると「撲滅運動」の成果は半分ぐらいということになろうか。棺桶に入る時まで、鹿児島弁のイントネーションは治りそうにない。
昨年6月に相良酒造の九代目の相良栄二さん(家内の叔父)が、91歳で亡くなられた。鹿児島では珍しくなった「まともな鹿児島弁」を、イントネーションともども完璧に話せる貴重な人だった。私も鹿児島弁を理解はできるのだが、自分でしゃべるとなるとなかなか難しい。ただ鹿児島弁で話すと、きつい内容でも柔らかく感じられるのが不思議である。また標準語の同異語に置き換えた時、細かなニュアンスで異なることも多い。
2016年1月1日の南日本新聞では、「鹿児島弁離れ加速」という大見出しで、「標準語教育偏重」の影響で、鹿児島県の子どもたちの方言離れが進んでいることを報じている。県内小学校のアンケート調査で、「げんね(恥ずかしい)」や「てせ(きつい)などの正答率が一けた台だったという。また若者の方言離れも顕著で、高齢者介護の現場では、「言葉の壁」が課題となってきているそうだ。
あの司馬遼太郎が、最も印象に残る鹿児島弁は「げんねこちょ知らん」だったという。
これは「司馬遼太郎の世界(文藝春秋社、1996年)」の追悼集の中で、「司馬さんの思いで」というタイトルで仁尾一三(元新潮社編集者)が書かれている。
仁尾さんは当時小説新潮の編集者だったが、昭和39年12月に新年号の特集企画として時代小説4本を並べることになり、司馬さんに原稿を依頼した。司馬さんは昭和34年に直木賞を受賞し多忙を極めていた時期で、「いまな、いそがしいからだめやな」と一度は断られた。ところが、「ちょっと待ってや。もう一度名前をいうてくれんか」ということで、仁尾という変わった名前のお陰で原稿をもらえることになり、加えてその後、親交を深めることができたという(ちなみに鹿児島でも、仁田尾(お茶で有名)という苗字は多いが、仁尾という姓は初めて聞いた)。
ある時、「西南戦争をテーマに連載をお願いできませんか」という依頼に、「そやな、西郷さんか、うん」ということで、仁尾さんの田舎の鹿児島市を案内することになった。そこで元市長の勝目清さんにお会いしたが、この方は正確な標準語と同時に正統な薩摩言葉の伝承者としても知られる学者である。この時に司馬さんがもっとも興味を持たれたのが、薩摩に古くからある「げんねこちょ知らん」という表現だったという。
薩摩では何事にも晴れがましいことを嫌い、すべてに控えめであることを美徳としてきたが、昭和、平成の世でも、なにかといえば「げんね(恥ずかしい)」と口に出していう。そうでない人間には、「あいつは、恥ずかしさを知らん」(げんねこちょ知らん)という批判が集まることになる。「そうか、今でもこういう言葉が残っとったか」と司馬さんも嬉しそうに頷いて、その後も何かといえば、「ふふっ、あいつも、げんねこちょ知らんな」と、”司馬流アクセント”で、それは楽しそうに口にしていたという。
