Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

お正月(後)(2016/01/13) 

私は小学4年生まで頴娃町立松原小学校に通ったが、その頃は毎年正月には、凍てつくような寒さの中を登校して、みんなで「一月一日」を歌った記憶がある。先日、この話を難病相談・支援センターで話題にしたら、私以外は「知らない」と素っ気ない。私が松原小学校に通っていた時代は昭和28年から31年頃になるわけだが、確かにこの時代には元旦の日には歌っていた。
 どういうわけか歳をとると、私も小さいころのことが懐かしく思い出されてくる。特に年末年始の風景や行事はどこの家庭にとっても「特別な日」だったかと思うが、最近では「普通の日」に成り下がってしまったような感がある。
私の古里は、東シナ海と開聞岳を見渡せる広々とした台地の、知覧町に接する頴娃町の小さな農村だった(現在は市町村合併の波で南九州市と名称変更されている)。年末に車で走る機会があったが、菜の花畑が茶畑に変わっている以外には何も変わっておらず、ただ当時子どもたちで賑わっていた道には、人の姿はなくて閑散としていたのが寂しい限りである。あの昭和のにぎわいの時代は、もうそこにはなかった。
 私の頴娃町時代は昭和20年代から30年代の初めにあたり、まだ日本のどこも貧しい時代にあった。でもみんなが貧しかったし、戦後復興の活力に満ちた時代でもあったわけで、今ではいい印象だけが残っている。貧しくても年末年始は格別で精一杯のご馳走を並べ、佐藤が書かれているように、新しい服や手袋など買ってもらって、文字通り「特別な日」だった。
私の家では年末になると、庭を飾るためにたくさんの白砂が運ばれて庭一面に撒かれた。すると周りの景色があたかも雪が降ったように変身し、その上ではしゃいだものである。あの砂はどこから持ってきたのだろうか。家の入り口には、手作りの大きな門松が飾られた。そして年末の29日頃だったと思うが、裏山のヒノキの大木の根本に、これも自家製のしめ縄を飾り、コメや塩のお供えをして「山の神」に祈りを奉げた思い出がある。またこの日のために鶏を飼っていて、首を絞め熱湯をかけつぶしていく様子を、怖がりながらも「畏敬」の念で見ていたように思う。おそらく我々の世代の多くの人は、似たような経験を持っているのではないだろうか。
 このように昔は父親が「威厳」を示せるような場が、日常の生活にも組み込まれていた。ところが時代とともに、いわゆる祭ごとはなくなり、鶏も店で簡単に調達できるようになっていく。現代は、父親は身をもって子どもに範を示しにくい時代である
さて今年の正月は、母が昨年8月に亡くなったこともあり、年賀状も失礼させてもらった。ただ天気の方は太平洋側ではどこも晴天で、素晴らしい初日の出を望むことができたようである。
私は元旦は緊急連絡時当番日にあたっていたので(でなくとも、来ていると思うが)、朝早く出勤した。毎年元旦は、新聞がどさっと配られるのが楽しみである。今年の各新聞の一面は高齢化のこと(南日本新聞)、新元素理研の発見認定(日経)、首相が衆参同一選も視野(朝日)などとなっている。
我が家では年末に山口から遊びに来ていた芽生ちゃん旋風でにぎわった。
2016年、6日連続で日経株価も下落し、どのような年になるのか見当もつかない。お正月は「特別の日」だと書いたが、庭に撒かれた白砂のように、自分の過去から新しくリセットし、新たな挑戦への機会ととらえることもできる。