Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

いのちと向き合う(後)(2016/02/04) 

以下は、田畑先生から頂いた「医療文化と仏教文化」も参考にしながらまとめてみた。
 まず、70歳代の大腸がんの患者さんの手術後5年間が経過して「もう再発の心配はありませんよ」と開業医のお返ししたら、その2年後に黄疸が出て、すい臓がんを発病して亡くなった。この時に医師の仕事は、老病死を先送りしたことにすぎないと悟った。これに対して仏教は、生死(しょうじ)を超える道である。
 また88歳の高血圧と不眠症で診ていた人が、自宅で意識がなくなって倒れているのが発見された。救急車で搬送されてきたので、MRIなどで検査をしたが異常は見つからなかった。そうこうするうちに意識が戻って、睡眠導入薬をたくさん飲んでいただけだったと分かった。この女性が「先生、私なんか役に立たん。みんなに迷惑をかけるばかりだ。あの時あのまま眠りたかった」と言われて衝撃を受けた。
田畑先生は黒板にチョークを使って、まず上に「幸せ」、下に「不幸」と書かれた。そして矢印で上に向かってはプラス(+)、下に向かってはマイナス(-)という記号を書き加えた。フランスのボーボワール(サルトルのパートナー)は「老い」という本で、「人生最後の十年、二十年を『廃品』と思わせるような文明は挫折していることの証明だ」と書いている。
現代人は「健康である、能力がある、役に立っている、迷惑をかけていない」など+の価値を上げて、逆に「病気である、老いてきた、迷惑をかけている」など-の価値を下げようとすることが幸せにつながるのだと思いこんでいる。ところが現実には、必ず老いに捕まり、病気に捕まって、死んでゆくことになり、不幸の完成で一生を終えることになる。仏の世界には「人間に生まれてよかった。生きていてよかった。全てをお任せします」という別の世界がある。
86歳の元数学の教師は高血圧と糖尿病、C型肝炎で通院されている。たまたま連休で肝炎の静脈注射が一回飛び越したら「大丈夫でしょうか」と言われるので、「先生、もう平均寿命を超えていますよ。もっと鷹揚にされてはいかがですか」と言うと、「がんになったらおしまいですからね」と言われた。そこで南無阿弥陀仏の話をしたら「わけのわからん南無阿弥陀仏だけは、言いとうない」と言われる。そしてこの方がついに肝がんを発症したら、「運命だ、あきらめるしかない」と言われた。
この患者さんのように、「訳のわからない南無阿弥陀仏だけは言いとうない」と豪語しても、最後には「運命だ」で片づけてしまう。「科学的合理主義による医療文化だけでは、現代人の理性・知性の分別だけでは、人生に責任を持って生き切っていくということはできない、自分の身体の責任者ということを全うできない」。
田畑先生は言われる。
精一杯生き切ったのちは、仏さまにおまかせという、一日一日が完結している世界を、仏教が生死を超える道として我々に示してくれている、と私は思わせていただいています。生死を超えるとは、生きる、死ぬにとらわれなくなり、「今、ここ」を生き切ることです。
 宗教心の薄い凡人には、なかなか辿りつけない境地である。