ビワにまつわる話(前)(2016/03/24)
ALS協会鹿児島県支部事務局長の里中さんから、SMA(脊髄性筋萎縮症)の患者会の立ち上げのお手伝いをしたいので、小児科教授の河野先生を紹介してほしいとの依頼を受けた。早速メールでその旨をお伝えしたところ、さすがに患者さん思いの強い河野先生、設立に向けて快諾していただいた。それにしても里中さんはALS患者会の運営だけでも忙しいのに、好ましき世話好き人である。
さてSMAは基本的には遺伝子の異常は同じであるが、発病年齢や進行度などは多様である。昔、筋ジス病棟に入院していたSMAの患者さんが、「私たちの病気の名前は『出世魚』ですね。わかなごから、はまち、ぶりなどと、大きさによって異なる名前が付いていますからね」と言ったときには思わず苦笑したものだった。この中でもっとも重症型では幼少時から全身の筋力低下が進行して、呼吸障害も必発するので人工呼吸器を付けながら在宅で療養を続けている患者さんも多い。この病気は比較的患者数も多く、私も今まで多くの患者さんとの関わりがあり、記憶に残っている患者さんも何人もいる。
もう40年ほど前になるだろうか、指宿に行く国道226号線沿いの平川町の指宿枕崎線の線路沿いにHさんという可愛い女の子(当時は小学生)が住んでいた。最近、この辺りを時々車で通ることがあるが、今では4車線になって車の往来も増えてすっかり様変わりしてしまっている。
このHさん、私が南九州病院に転勤したころに外来を受診したことがあった。当時まだ、加治木養護学校は開設されておらず、訪問教育を受けていた。たまたまその先生が私の知り合い(横峯さん)のお姉さんだったので、頼まれて一度だけ平川町の自宅を訪ねたことがあった。
昭和51年だったかと思うが、私が南九州病院に第一回目の出張をしたころである。当時は時間的にも余裕があったので、自分の車で筋ジストロフィー患者さんの在宅訪問を楽しんでいた。ただナビというような便利な代物はなかったので、番地を頼りに出会った方々に聞きながらやっとたどり着いた。ちょうどビワの収穫期の頃だっただろうか、庭先にはビワがたわわになっており帰り際にビワをたくさん頂いて帰った思い出がある。
「ゆかり」さんという名前で、当時小学生6年生頃だったかと思うが、歩くことは出来ず縁側に座っていた。利発で表情も豊かで生き生きとしており、美しい色のクレヨンで彩られた絵日記を見せてくれた。後でこの絵日記を送ってくれたが、その後しばらくして亡くなられたという報告を受けた。
さてSMAは基本的には遺伝子の異常は同じであるが、発病年齢や進行度などは多様である。昔、筋ジス病棟に入院していたSMAの患者さんが、「私たちの病気の名前は『出世魚』ですね。わかなごから、はまち、ぶりなどと、大きさによって異なる名前が付いていますからね」と言ったときには思わず苦笑したものだった。この中でもっとも重症型では幼少時から全身の筋力低下が進行して、呼吸障害も必発するので人工呼吸器を付けながら在宅で療養を続けている患者さんも多い。この病気は比較的患者数も多く、私も今まで多くの患者さんとの関わりがあり、記憶に残っている患者さんも何人もいる。
もう40年ほど前になるだろうか、指宿に行く国道226号線沿いの平川町の指宿枕崎線の線路沿いにHさんという可愛い女の子(当時は小学生)が住んでいた。最近、この辺りを時々車で通ることがあるが、今では4車線になって車の往来も増えてすっかり様変わりしてしまっている。
このHさん、私が南九州病院に転勤したころに外来を受診したことがあった。当時まだ、加治木養護学校は開設されておらず、訪問教育を受けていた。たまたまその先生が私の知り合い(横峯さん)のお姉さんだったので、頼まれて一度だけ平川町の自宅を訪ねたことがあった。
昭和51年だったかと思うが、私が南九州病院に第一回目の出張をしたころである。当時は時間的にも余裕があったので、自分の車で筋ジストロフィー患者さんの在宅訪問を楽しんでいた。ただナビというような便利な代物はなかったので、番地を頼りに出会った方々に聞きながらやっとたどり着いた。ちょうどビワの収穫期の頃だっただろうか、庭先にはビワがたわわになっており帰り際にビワをたくさん頂いて帰った思い出がある。
「ゆかり」さんという名前で、当時小学生6年生頃だったかと思うが、歩くことは出来ず縁側に座っていた。利発で表情も豊かで生き生きとしており、美しい色のクレヨンで彩られた絵日記を見せてくれた。後でこの絵日記を送ってくれたが、その後しばらくして亡くなられたという報告を受けた。
