大震災(2016/03/11)
今日は3月11日、あの東日本大震災から5年を迎えることになる。
月日の経つのは実に早い。8:6水害(1993年)と呼ばれた鹿児島市の中央を流れる甲突川の氾濫の話になると、市民ほぼ全員がそれぞれにとどまることなく当時の自らの状況を話すことが多い。ところが一方では歳月とともに忘れて風化していくのも事実である。ただ阪神淡路と違って東日本の場合には原発事故という人災のような惨事も重なったので、その影響が個人の日常の生活に未だに大きな影響を及ぼしている。
日経新聞では「問いかける言葉~東日本大震災5年」という特集で、歴史や社会、文明に対する日本人の考え方をどのように変えたのかを問うている。
第1回目は哲学者の鷲田清一氏で「答え出せない時間に佇む」というタイトルである。震災からしばらく経った頃、被災地で幽霊をみたという人が現れた。幽霊が見える心理とは、死者が遠くなった時に(隔たりが生まれて)幽霊が向こうからやってくるというのである。その隔たりは被災者にとって必ずしも悪いことではないが、隔たりが一層大きくなると今度はあきらめに近いものになる。がれきが早くなくなればいいと思っていたのに、実際になくなると落ち込む心理と同じである。社会は「答えが出せない時間」を許してくれない。だがそんな時間こそ大切であり、その中に佇むことに深い意味がある。
第2回目は作家の池澤夏樹氏で「利他に向かう社会 幻想か」というタイトルである。
日本は古来、災害列島の上で暮らしてきたが、そのような宿命の中で日本人は無常の感覚を心に抱え、色恋を好み、武勲を誇るよりも敗者をいたわる人たちであると考えるようになった。同時に天災と復興を繰り返す長い歴史の中で「災害ずれ」してしまった人間だとも思う。「仕方がない」と割り切り、必死に思いつめるより花見をしてゆったり暮らしたいと思う。原発再稼働、あの日に立ち返ってものを考えなければならないのに・・・。
第3回目は漫画家の萩尾望都氏で「痛み伴う対話を選ぶ潔さ」。
原発は社会に賛否両論の議論を呼び起こしている。・・・だが今は対峙する双方に理があり、どうコミュニケーションをとるかという話になる。震災後、日本人は毎日岐路に立たされている。今の問題は上の世代が良かれと思ってやった結果だ。未来を作るのは若者である。「敵」に見立てた他者をたたく安易さに流されず、状況の本質を深く問うてほしい。
第4回目は文芸評論家の加藤典洋氏、「戦後・災後に目をつぶるな」
「有限性の社会を人間がどう生きるか」という災後の問題はすぐには回答がでない。同時かつ全方向的に考えつくすべきだ。アメリカ神学者のラインホルド・ニーバーは「変えられないものを変える勇気と、変えられぬものを受け入れる冷静さと、そして変えられるものと変えられぬものを識別する知恵を、神よ与えたまえ」と説いた。この言葉を胸に、私たちは難しい時代に向き合わなければならない。
第5回目は写真家の畠山直哉氏、「問いの先」探す俯瞰の視点というタイトルである。
震災後の世界にはさまざまな問いがある。問こそ大事だという人がいる。だが私は頭だけでいいのかと考えるようになった。俯瞰的な視点から世界を眺め、自ら発したというに対して、人々を安心させる答えを探し始める時だと思う。
あの日、私は出張でたまたま東京にいて、その様子を数日後の院内ランに次のように記している。
東京での地震
今回の未曾有の巨大地震、戦後最大の国難である。大地を飲み込んでいく津波の恐怖、原発の建屋の鉄鋼がむき出しになったテレビ映像など、戦慄以外の何ものでもない。ただただ無力感にさいなまされるだけである。鹿児島にいて何ができるかというと限られてくるが、自分たちの日常の仕事を粛々とこなしながら、どのような事態にも対応できるような備えはしておく必要がある。日本がそして日本人が試されている訳で、力を合わせてこの国難を乗り越えていかなければならない。
このような時、東京での私の体験などとるに足らぬことであるが、一応「日常の延長」として記すことにする。この「院内ラン」をアップすることにはばかりも感じるが、全てを自粛ムードにしてしまっては、日本そのものが沈没してしまう。
3月12日、地震の翌日、午前10時過ぎに羽田空港を離陸して、正直にいえば初めてホッとした瞬間である。もちろん今回の大震災で被災された方やその手助けをされている方々に思いをはせると、本当に申し訳ない気持ちになるが、昨日からの約一日足らず出来事は私にとっても予想だにしないことだった。
11日の午後3時から東京の目黒雅叙園で、院長協議会の役員会が開かれることになっていた。鹿児島空港発9時55分の飛行機に乗り込んだが、出発の遅れや羽田空港の混雑もあって、着陸は12時前と予定より30分ほど遅れていた。それでも会議には少し時間の余裕があるとふんでいたが、空港を出発前にメールをチェックしたら、東京の世田谷に住んでおられるパーキンソン症候群のIさん(去年の夏ごろ、私の書いたパーキンソン病の本を読まれて、わざわざ鹿児島まで診察に来られたことがある)から、「画像検査の結果がわかったので、詳しくお聞きしたい」というものだった。どうせ時間も余っていることだし、折角の要望だから相談に乗ってあげようと、最寄りの駅まで迎えに来てもらった。世田谷のご自宅で一時間ほど過ごしたのち、Iさんの奥さんの運転で雅叙園まで送ってもらうことにした。
もうすぐ雅叙園だと思っていた時、午後2時46分、車が突然浮き上がるような衝撃を体全体で受けた。私は後部座席にいたが、今まで経験したことのない大きな揺れだった。「地震ですね」と思わず呟きながら前方を見つめると、ビルや電柱が横に揺れているのがよくわかる。そのうちに止むだろうと思ったが、なかなか止まず、すごく長い時間に思えた。これだけの揺れを東京で感じるということは、おそらく震源地の近くでは大変な被害が起きているだろうと直感した。車は前に進めず道路の中央で停止し、私は車から降ろしてもらった。周りには目立った被害はないが、人々が家から道路に飛び出している。荷物を引っ張りながら小走りに雅叙園へと向かい、3時過ぎには会場に到着できた。
会議は4階の会議室で予定通り始まったが、しばらくするとまた余震と思われる激しい揺れで、建物がバリバリと大きな音を出してきしみだした。スタッフから、「外に避難してください」と言われて、非常階段を伝って外に出た。狭い避難所には人がひしめいていたが、しばらくして玄関前の別の避難所に誘導された。そこには雅叙園に隣接した高層ビルの社員が、ヘルメットをかぶって大勢集まっている。しばらくして、院長協議会の松本会長から、今日の会議の要旨が説明され、そのまま解散することになった。
取りあえずホテルに帰ろうと思って、雅叙園から目黒駅までの急峻な坂を登ると、たまたま米倉先生(長崎医療センター院長)と村中先生(九州医療センター院長)に鉢合わせた。駅はごった返しているのに、あの混乱の中でよくも合流できたものである。偶然、タクシーが乗客を降ろしたところで、運良く3人一緒に乗り込んだ。今振り返ると、この偶然と判断がよかったわけで、そうでなければ確実に「帰宅困難者」の一人となっていたはずである。
村中先生を品川駅に降ろすころまでは、比較的スムースな流れだったが、米倉先生の宿泊する新橋のホテルに行くころは激しい渋滞となっていた。JRや地下鉄が全て停まってしまったので、歩道には帰りを急ぐ人が塊として続いている。ようやく米倉先生を新橋駅の近くで降ろして、私の宿泊する赤坂見附のエクセル東急まで行ってもらうことにした。最悪の場合には歩くことも覚悟したが、幹線道路からわき道に入ると比較的すいており、無事ホテルの近くまで到着できた。
ホテルでチェックインした後、非常階段を上って部屋に入ってテレビを見て、初めて全体の地震の輪郭を知ることができた。そのあとしばらくして近くのコンビニに行ったが、食べ物はほとんど空になっていた。またホテルのロビーには多くの帰宅できない人が疲れた表情で座り込んでおり、ゆっくりベッドで休めるだけでもラッキーだと思うことにした。 その夜は、「緊急地震速報」が一時間に何度も放送され、その都度緊張してほとんど眠ることはできなかった。明日は鹿児島に帰れるだろうかと心配していたが、羽田空港までのアクセスにちょっと手間取るものの、飛行機はほぼ定刻に離陸することができた。
「東京に出張中には大きな地震に遭いたくないな」とかねがね思っていたが、阪神淡路大震災の時にも品川プリンスに宿泊しており、東京出張の回数が多くなれば確率的にはやむを得ないことだろうと観念するしかない。
それにしても今回の大惨事、テレビを見ているとどこから手を着ければいいのか茫然自失になる。それでも、一つずつ前に進んでいくしかない。
月日の経つのは実に早い。8:6水害(1993年)と呼ばれた鹿児島市の中央を流れる甲突川の氾濫の話になると、市民ほぼ全員がそれぞれにとどまることなく当時の自らの状況を話すことが多い。ところが一方では歳月とともに忘れて風化していくのも事実である。ただ阪神淡路と違って東日本の場合には原発事故という人災のような惨事も重なったので、その影響が個人の日常の生活に未だに大きな影響を及ぼしている。
日経新聞では「問いかける言葉~東日本大震災5年」という特集で、歴史や社会、文明に対する日本人の考え方をどのように変えたのかを問うている。
第1回目は哲学者の鷲田清一氏で「答え出せない時間に佇む」というタイトルである。震災からしばらく経った頃、被災地で幽霊をみたという人が現れた。幽霊が見える心理とは、死者が遠くなった時に(隔たりが生まれて)幽霊が向こうからやってくるというのである。その隔たりは被災者にとって必ずしも悪いことではないが、隔たりが一層大きくなると今度はあきらめに近いものになる。がれきが早くなくなればいいと思っていたのに、実際になくなると落ち込む心理と同じである。社会は「答えが出せない時間」を許してくれない。だがそんな時間こそ大切であり、その中に佇むことに深い意味がある。
第2回目は作家の池澤夏樹氏で「利他に向かう社会 幻想か」というタイトルである。
日本は古来、災害列島の上で暮らしてきたが、そのような宿命の中で日本人は無常の感覚を心に抱え、色恋を好み、武勲を誇るよりも敗者をいたわる人たちであると考えるようになった。同時に天災と復興を繰り返す長い歴史の中で「災害ずれ」してしまった人間だとも思う。「仕方がない」と割り切り、必死に思いつめるより花見をしてゆったり暮らしたいと思う。原発再稼働、あの日に立ち返ってものを考えなければならないのに・・・。
第3回目は漫画家の萩尾望都氏で「痛み伴う対話を選ぶ潔さ」。
原発は社会に賛否両論の議論を呼び起こしている。・・・だが今は対峙する双方に理があり、どうコミュニケーションをとるかという話になる。震災後、日本人は毎日岐路に立たされている。今の問題は上の世代が良かれと思ってやった結果だ。未来を作るのは若者である。「敵」に見立てた他者をたたく安易さに流されず、状況の本質を深く問うてほしい。
第4回目は文芸評論家の加藤典洋氏、「戦後・災後に目をつぶるな」
「有限性の社会を人間がどう生きるか」という災後の問題はすぐには回答がでない。同時かつ全方向的に考えつくすべきだ。アメリカ神学者のラインホルド・ニーバーは「変えられないものを変える勇気と、変えられぬものを受け入れる冷静さと、そして変えられるものと変えられぬものを識別する知恵を、神よ与えたまえ」と説いた。この言葉を胸に、私たちは難しい時代に向き合わなければならない。
第5回目は写真家の畠山直哉氏、「問いの先」探す俯瞰の視点というタイトルである。
震災後の世界にはさまざまな問いがある。問こそ大事だという人がいる。だが私は頭だけでいいのかと考えるようになった。俯瞰的な視点から世界を眺め、自ら発したというに対して、人々を安心させる答えを探し始める時だと思う。
あの日、私は出張でたまたま東京にいて、その様子を数日後の院内ランに次のように記している。
東京での地震
今回の未曾有の巨大地震、戦後最大の国難である。大地を飲み込んでいく津波の恐怖、原発の建屋の鉄鋼がむき出しになったテレビ映像など、戦慄以外の何ものでもない。ただただ無力感にさいなまされるだけである。鹿児島にいて何ができるかというと限られてくるが、自分たちの日常の仕事を粛々とこなしながら、どのような事態にも対応できるような備えはしておく必要がある。日本がそして日本人が試されている訳で、力を合わせてこの国難を乗り越えていかなければならない。
このような時、東京での私の体験などとるに足らぬことであるが、一応「日常の延長」として記すことにする。この「院内ラン」をアップすることにはばかりも感じるが、全てを自粛ムードにしてしまっては、日本そのものが沈没してしまう。
3月12日、地震の翌日、午前10時過ぎに羽田空港を離陸して、正直にいえば初めてホッとした瞬間である。もちろん今回の大震災で被災された方やその手助けをされている方々に思いをはせると、本当に申し訳ない気持ちになるが、昨日からの約一日足らず出来事は私にとっても予想だにしないことだった。
11日の午後3時から東京の目黒雅叙園で、院長協議会の役員会が開かれることになっていた。鹿児島空港発9時55分の飛行機に乗り込んだが、出発の遅れや羽田空港の混雑もあって、着陸は12時前と予定より30分ほど遅れていた。それでも会議には少し時間の余裕があるとふんでいたが、空港を出発前にメールをチェックしたら、東京の世田谷に住んでおられるパーキンソン症候群のIさん(去年の夏ごろ、私の書いたパーキンソン病の本を読まれて、わざわざ鹿児島まで診察に来られたことがある)から、「画像検査の結果がわかったので、詳しくお聞きしたい」というものだった。どうせ時間も余っていることだし、折角の要望だから相談に乗ってあげようと、最寄りの駅まで迎えに来てもらった。世田谷のご自宅で一時間ほど過ごしたのち、Iさんの奥さんの運転で雅叙園まで送ってもらうことにした。
もうすぐ雅叙園だと思っていた時、午後2時46分、車が突然浮き上がるような衝撃を体全体で受けた。私は後部座席にいたが、今まで経験したことのない大きな揺れだった。「地震ですね」と思わず呟きながら前方を見つめると、ビルや電柱が横に揺れているのがよくわかる。そのうちに止むだろうと思ったが、なかなか止まず、すごく長い時間に思えた。これだけの揺れを東京で感じるということは、おそらく震源地の近くでは大変な被害が起きているだろうと直感した。車は前に進めず道路の中央で停止し、私は車から降ろしてもらった。周りには目立った被害はないが、人々が家から道路に飛び出している。荷物を引っ張りながら小走りに雅叙園へと向かい、3時過ぎには会場に到着できた。
会議は4階の会議室で予定通り始まったが、しばらくするとまた余震と思われる激しい揺れで、建物がバリバリと大きな音を出してきしみだした。スタッフから、「外に避難してください」と言われて、非常階段を伝って外に出た。狭い避難所には人がひしめいていたが、しばらくして玄関前の別の避難所に誘導された。そこには雅叙園に隣接した高層ビルの社員が、ヘルメットをかぶって大勢集まっている。しばらくして、院長協議会の松本会長から、今日の会議の要旨が説明され、そのまま解散することになった。
取りあえずホテルに帰ろうと思って、雅叙園から目黒駅までの急峻な坂を登ると、たまたま米倉先生(長崎医療センター院長)と村中先生(九州医療センター院長)に鉢合わせた。駅はごった返しているのに、あの混乱の中でよくも合流できたものである。偶然、タクシーが乗客を降ろしたところで、運良く3人一緒に乗り込んだ。今振り返ると、この偶然と判断がよかったわけで、そうでなければ確実に「帰宅困難者」の一人となっていたはずである。
村中先生を品川駅に降ろすころまでは、比較的スムースな流れだったが、米倉先生の宿泊する新橋のホテルに行くころは激しい渋滞となっていた。JRや地下鉄が全て停まってしまったので、歩道には帰りを急ぐ人が塊として続いている。ようやく米倉先生を新橋駅の近くで降ろして、私の宿泊する赤坂見附のエクセル東急まで行ってもらうことにした。最悪の場合には歩くことも覚悟したが、幹線道路からわき道に入ると比較的すいており、無事ホテルの近くまで到着できた。
ホテルでチェックインした後、非常階段を上って部屋に入ってテレビを見て、初めて全体の地震の輪郭を知ることができた。そのあとしばらくして近くのコンビニに行ったが、食べ物はほとんど空になっていた。またホテルのロビーには多くの帰宅できない人が疲れた表情で座り込んでおり、ゆっくりベッドで休めるだけでもラッキーだと思うことにした。 その夜は、「緊急地震速報」が一時間に何度も放送され、その都度緊張してほとんど眠ることはできなかった。明日は鹿児島に帰れるだろうかと心配していたが、羽田空港までのアクセスにちょっと手間取るものの、飛行機はほぼ定刻に離陸することができた。
「東京に出張中には大きな地震に遭いたくないな」とかねがね思っていたが、阪神淡路大震災の時にも品川プリンスに宿泊しており、東京出張の回数が多くなれば確率的にはやむを得ないことだろうと観念するしかない。
それにしても今回の大惨事、テレビを見ているとどこから手を着ければいいのか茫然自失になる。それでも、一つずつ前に進んでいくしかない。
