静かな死(2016/03/10)
義父が亡くなって、今日でちょうど10年が経つ。真面目で善良な臨床家で、そして最期は静かにあの世に旅立った。潔い生き方、そして死に方だったと思う。時々、語りかけたくなるが、返事はもらえない。
当時私が書いたものを採録させてもらおうと思う。
「もう点滴は止めて欲しい」と、一日わずか100mlだけしかしていなかった点滴だったが、往診に来られた斎藤裕先生(相良病院ホスピス長)にお願いした。昨日までは点滴に来た看護婦さんに、滴下速度を早めるように指示して困らせていた。「そうしましょう」と先生が答えると、軽く微笑みをつくりながらやせ細った両手を合わせて一礼した。
平成15年末に、思いもしなかった口腔癌が発見された。2年ほど前から差し歯の調子が悪いということで近くの歯科医に時々通っていたが、「歯肉炎でしょう」ということでそのまま放置されていた。診断がついた時にはかなりの進行癌で、翌3月に鹿児島市立病院で12時間にも及ぶ大手術ののち小康を得ていたが、17年の春頃から右下額部に腫瘤の増大を認めるようになった。再発癌ということで放射線治療やサイバーナイフ治療を数回行ったが癌の勢いは衰えず、今年になって口腔から頸部にかけて数個の新たな腫瘤を認めるようになる。「もう積極的な治療はいいよ」と言いながらも、足腰の鍛錬のために夕方には決まったように散歩に出かける規則正しい生活を励行していた。ところが今年の2月になって急速に体力が衰え、臥床の生活となる。それでも年末までは、自院の外来と病棟の入院患者さんの診療を欠かさず、馴染みの患者さんを逆にはらはらさせていた。表面的な物腰はソフトな印象を持たれるが、物事に動じない、芯の強い性格だったのだろう。
私は昭和51年に縁あって家内と結婚したので、義父との付き合いはかれこれ30年ということになる。この間、特段言い争いをした記憶もなく、不快な感情を抱くようなことも一切なかったし、恐らく価値観も似かよっていたのでお互いを認めあってきたような気がする。義父は、今回の癌告知から手術、そしてその後の生活でも実に淡々と過ごされ不安感を一度も表出したこともなく、同じ医師仲間としてみても到底真似の出来ないことだと驚くばかりである。自分の病状は一番よく知っているわけであり、普通なら取り乱したりパニックに陥りそうな状況でも、そのまま「ああ、そうか」というふうに、ありのままに平静に運命を受け入れていたように感じられた。癌告知を受けてからの生活は、穏やかな諦観と前向きな死への準備の時間だったような気がする。
余り詳しい事情はよく理解していないが、義父はまだ物心もつかない頃に、博多からいわゆるもらい子として鹿児島に一人で連れてこられた。戦前の鹿児島県立病院の初代歯科部長を辞し、現在の西郷銅像の前の中央公園(その後、市の要請で山形屋近くに移ったという)で歯科医院を開業していたおじ夫妻に子どもがいなかったからである。そして一昨年101歳で亡くなった継母が、我が子にも出来ないような愛情を注いで育てたという。戦中戦後の物資の不足していた時代に、自分の食べる物に事欠いても、子どもにはいい物を食べさせていたと当時を知る人から聞いたことがある。
県立第二中学校から第七高校への受験の時にたまたま戸籍を見る機会があって、初めて養子であることを知ることになるが、「動揺は全くなかった」と話していた。義父の物事を素直にそのまま受け取る性格と、継母の心からの愛情のなせる技だろう。また九州大学を卒業して医化学教室で研究が面白くなっていた矢先に、「郷里に帰ってくるように」といわれたそうで、この時も「ああ、そうか」と思って素直に帰郷したということだった。運命に逆らうことなく従容とした性格は、若い時分から身に付いていたのだろう。
亡くなる数日前、病院からの帰りがけに入院していた3階の病室を訪ねると、昨日までと異なって目を開けていた。しばらく文字盤など使って話していると、七高、九大、そして鹿児島大学第一内科と同窓だった津崎文雄先生(元県立鹿屋病院長)が見舞いに来られた。やはり旧友との語らいは特別なようで、おもむろに白板に震える手で書き始めた。『人生のdying(臨終)を、親友と大好きな婿に囲まれて幸せです。ビールを飲もう』。そして義母が5階から小さな缶ビールと3つのグラスを持ってきて、ベッドの義父を挟んで乾杯した。
医療関係者の間でも「口頚部の癌にだけはなりたくない」というそうで、確かに食べられない、喋れないなど多くの困難が立ちはだかる。小さなグラスのビールをやっと飲み終えて『最後のビールはうまかった』と書いた隣に、TBSの人形のようなロゴに両手を突き上げるような絵を描いて、「バンザイ」と書き添えた。私もこらえても出てくる涙を拭きながら、「お父さんは本当にいい人生を過ごすことができた。最期も自分の建てた病院で、自分で育てた看護師さんに優しく看病されながら死ねるという幸せは、そんなにあるものではない。本当にいい人生だった」と繰り返すだけだった。「柴ちゃんはよく勉強もできたけど、決して人を押しのけて生きていくような人じゃなかったからな・・・」と嗚咽を堪えながら津崎先生。一時間ちょっとの時間だったが、今後いつまでも心の中に思い出として残る夜だった。
その後も喘鳴が続いたり、痰が絡んで息苦しくなったりとしながら、生命の灯は少しずつ弱々しくなっていく。それでも特段苦しさを訴えることもなく、呼びかけると目を覚まして穏やかに微笑して手をさしだして握手する。家内には今後の義母の生活をおもんばかってか、マジックで紙に「お母さんのお友だちを大切にしなさい」と意外な言葉を書いたという。きっと残された義母が、友達に囲まれて寂しくない生活が送れるようにとの深い思いが込められていたのだろう。
平成18年3月10日11時50分、2年前に執刀してくださった鹿島直子先生(前市立病院副院長)がお見舞いに来られて感謝の気持ちを述べてまもなく急変し、帰らぬ人となった。享年79歳、昭和、そして平成の時代を静かに、でも堅実に歩み続けた心臓内科医の一生であった。
西行法師が詠い、多くの日本人の共通の願いでもある「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の望月のころ」を見定めていたかのように、桜島が殊のほか澄みわたってきれいな春の朝、山桜の咲きほこる中で静かに人生を閉じたのである。
当時私が書いたものを採録させてもらおうと思う。
「もう点滴は止めて欲しい」と、一日わずか100mlだけしかしていなかった点滴だったが、往診に来られた斎藤裕先生(相良病院ホスピス長)にお願いした。昨日までは点滴に来た看護婦さんに、滴下速度を早めるように指示して困らせていた。「そうしましょう」と先生が答えると、軽く微笑みをつくりながらやせ細った両手を合わせて一礼した。
平成15年末に、思いもしなかった口腔癌が発見された。2年ほど前から差し歯の調子が悪いということで近くの歯科医に時々通っていたが、「歯肉炎でしょう」ということでそのまま放置されていた。診断がついた時にはかなりの進行癌で、翌3月に鹿児島市立病院で12時間にも及ぶ大手術ののち小康を得ていたが、17年の春頃から右下額部に腫瘤の増大を認めるようになった。再発癌ということで放射線治療やサイバーナイフ治療を数回行ったが癌の勢いは衰えず、今年になって口腔から頸部にかけて数個の新たな腫瘤を認めるようになる。「もう積極的な治療はいいよ」と言いながらも、足腰の鍛錬のために夕方には決まったように散歩に出かける規則正しい生活を励行していた。ところが今年の2月になって急速に体力が衰え、臥床の生活となる。それでも年末までは、自院の外来と病棟の入院患者さんの診療を欠かさず、馴染みの患者さんを逆にはらはらさせていた。表面的な物腰はソフトな印象を持たれるが、物事に動じない、芯の強い性格だったのだろう。
私は昭和51年に縁あって家内と結婚したので、義父との付き合いはかれこれ30年ということになる。この間、特段言い争いをした記憶もなく、不快な感情を抱くようなことも一切なかったし、恐らく価値観も似かよっていたのでお互いを認めあってきたような気がする。義父は、今回の癌告知から手術、そしてその後の生活でも実に淡々と過ごされ不安感を一度も表出したこともなく、同じ医師仲間としてみても到底真似の出来ないことだと驚くばかりである。自分の病状は一番よく知っているわけであり、普通なら取り乱したりパニックに陥りそうな状況でも、そのまま「ああ、そうか」というふうに、ありのままに平静に運命を受け入れていたように感じられた。癌告知を受けてからの生活は、穏やかな諦観と前向きな死への準備の時間だったような気がする。
余り詳しい事情はよく理解していないが、義父はまだ物心もつかない頃に、博多からいわゆるもらい子として鹿児島に一人で連れてこられた。戦前の鹿児島県立病院の初代歯科部長を辞し、現在の西郷銅像の前の中央公園(その後、市の要請で山形屋近くに移ったという)で歯科医院を開業していたおじ夫妻に子どもがいなかったからである。そして一昨年101歳で亡くなった継母が、我が子にも出来ないような愛情を注いで育てたという。戦中戦後の物資の不足していた時代に、自分の食べる物に事欠いても、子どもにはいい物を食べさせていたと当時を知る人から聞いたことがある。
県立第二中学校から第七高校への受験の時にたまたま戸籍を見る機会があって、初めて養子であることを知ることになるが、「動揺は全くなかった」と話していた。義父の物事を素直にそのまま受け取る性格と、継母の心からの愛情のなせる技だろう。また九州大学を卒業して医化学教室で研究が面白くなっていた矢先に、「郷里に帰ってくるように」といわれたそうで、この時も「ああ、そうか」と思って素直に帰郷したということだった。運命に逆らうことなく従容とした性格は、若い時分から身に付いていたのだろう。
亡くなる数日前、病院からの帰りがけに入院していた3階の病室を訪ねると、昨日までと異なって目を開けていた。しばらく文字盤など使って話していると、七高、九大、そして鹿児島大学第一内科と同窓だった津崎文雄先生(元県立鹿屋病院長)が見舞いに来られた。やはり旧友との語らいは特別なようで、おもむろに白板に震える手で書き始めた。『人生のdying(臨終)を、親友と大好きな婿に囲まれて幸せです。ビールを飲もう』。そして義母が5階から小さな缶ビールと3つのグラスを持ってきて、ベッドの義父を挟んで乾杯した。
医療関係者の間でも「口頚部の癌にだけはなりたくない」というそうで、確かに食べられない、喋れないなど多くの困難が立ちはだかる。小さなグラスのビールをやっと飲み終えて『最後のビールはうまかった』と書いた隣に、TBSの人形のようなロゴに両手を突き上げるような絵を描いて、「バンザイ」と書き添えた。私もこらえても出てくる涙を拭きながら、「お父さんは本当にいい人生を過ごすことができた。最期も自分の建てた病院で、自分で育てた看護師さんに優しく看病されながら死ねるという幸せは、そんなにあるものではない。本当にいい人生だった」と繰り返すだけだった。「柴ちゃんはよく勉強もできたけど、決して人を押しのけて生きていくような人じゃなかったからな・・・」と嗚咽を堪えながら津崎先生。一時間ちょっとの時間だったが、今後いつまでも心の中に思い出として残る夜だった。
その後も喘鳴が続いたり、痰が絡んで息苦しくなったりとしながら、生命の灯は少しずつ弱々しくなっていく。それでも特段苦しさを訴えることもなく、呼びかけると目を覚まして穏やかに微笑して手をさしだして握手する。家内には今後の義母の生活をおもんばかってか、マジックで紙に「お母さんのお友だちを大切にしなさい」と意外な言葉を書いたという。きっと残された義母が、友達に囲まれて寂しくない生活が送れるようにとの深い思いが込められていたのだろう。
平成18年3月10日11時50分、2年前に執刀してくださった鹿島直子先生(前市立病院副院長)がお見舞いに来られて感謝の気持ちを述べてまもなく急変し、帰らぬ人となった。享年79歳、昭和、そして平成の時代を静かに、でも堅実に歩み続けた心臓内科医の一生であった。
西行法師が詠い、多くの日本人の共通の願いでもある「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の望月のころ」を見定めていたかのように、桜島が殊のほか澄みわたってきれいな春の朝、山桜の咲きほこる中で静かに人生を閉じたのである。
