それぞれの人生をナラティブに(緩和ケア)(前)(2016/04/22)
ナラティブ(物語)という言葉がある。いろいろな使われ方があるようだが、緩和ケア病棟や難病などの患者に対する精神療法の一つで、治療者がクライエント(患者)との対話によって新しい物語を創造し、会話を通して新しい意味を発生させて、クライエントの持っている問題を解決していこうというものである。一つの出来事を他の出来事と結びつけて物語として語ると、その出来事を意味づけることができるし了解し受け入れることもできる。確かにひとり一人の人生も、いくつかの小さな物語からなる大きな物語である。患者さんも自分の人生の物語を語れば、自身の人生や意味づけもできるのではないだろうか。
私が南九州病院時代に緩和ケア棟で、特に印象に残っている今は亡き3人の患者さんを物語ってみたい。いずれも惜しい方々で、我々に多くのメッセージを残してくれたと思う。南風の職員にも知ってほしい人たちなので、あえて再録したい。
一人目:村永行善先生
先生とのご縁は、長倉先生を通じてである。2009年8月8日(土)に、南九州病院の緩和ケア棟で65歳の生涯を閉じられた。
たまたま鹿児島空港で長倉先生に会った時、「村永先生が、南九州病院の緩和ケア棟に入院されることになりましたのでよろしくお願いします」と言われた。早速、先生を訪ねると奥様とご一緒で、初対面の私に今までの病気の経過について淡々と静かに話された。
3年ほど前に京都の本願寺で仕事をされていたときに、武田病院に最新鋭のMRIが入ったということで、試みに撮ってもらった。肝臓に小さな陰があり、愛知がんセンターで手術してもらった。開腹すると進行した肝内胆管がんで、摘出しない方がいいという判断でそのまま閉じられた。自覚的には無症状で、検査して初期のがんだろうと思って手術したら末期がんといわれ、文字通り青天の霹靂の出来事であった。その後も京都の本願寺の要職をこなされながら、現在に至っているということだった。
この村永先生、私は今まで存じ上げなかったが、その道では素晴らしい足跡を残された方である。桜島町の西寿寺住職であったが、ここ十数年は主に京都の本願寺を中心に仕事をされ、土日に帰って来るという生活が続いたという。長倉先生の弁では、健康なら西本願寺の総長(内閣総理大臣)は間違いなかったのだという。
その後、時々お邪魔しては世間話や死に臨んでの仏教の教えなどもお聞きした。ちょうど亡くなられる1週間ほど前に伺ったときには奥様に命じて体を起こされて、隠れ念仏の話をしてくださった。薩摩のかくれ念仏についての殉教(じゅんきょう)秘話、『血は輝く』(佐々木教正著)が絶版となっているので、その再版をしたいという夢を語ってくれた。長倉先生によると、佐々木さんは村永先生の実父にあたる方で、真宗の布教のために知覧にあった大きなお寺から桜島に移り住み、石を投げられたり放火を受けるなどの苦労を重ねながら、現在の西寿寺を創建された人であるという。一方では、殉教者の話を集めて、この「血は輝く」という一冊の本にまとめられたのだという。
薩摩藩は武士階級制の強い藩だったので、浄土真宗の「生きとし生けるものすべて平等」という考え方を嫌ったようで、厳しい真宗禁止を行った(1550年頃以降)。そのため藩の役人の目を逃れて仏を拝んだり修行するために造られた洞窟に身を隠したり、殉教者の話など、現代の鹿児島からは想像できない悲惨なことがあったのだという。鹿児島西本願寺別院の境内には、親鸞上人の銅像の横に涙石が置かれている。役人たちが信者の疑いのある者を捕らえて、この石を抱かせて自白を迫ったと伝えられている。信者たちの苦しみの涙がそそがれた石、という意味だそうである。
村永先生の終末は、毎朝、窓の外にひろがる桜島や錦江湾を眺めながら、静かで厳かで、それでも腹水を抜きながら京都に出かけるなど、自分の任務を立派に果たされた。いかにも仏教を修めてこられた偉い僧侶にふさわしい日々で、静かで穏やかで荘厳な雰囲気の中で浄土に旅立たれたといえる。
私が南九州病院時代に緩和ケア棟で、特に印象に残っている今は亡き3人の患者さんを物語ってみたい。いずれも惜しい方々で、我々に多くのメッセージを残してくれたと思う。南風の職員にも知ってほしい人たちなので、あえて再録したい。
一人目:村永行善先生
先生とのご縁は、長倉先生を通じてである。2009年8月8日(土)に、南九州病院の緩和ケア棟で65歳の生涯を閉じられた。
たまたま鹿児島空港で長倉先生に会った時、「村永先生が、南九州病院の緩和ケア棟に入院されることになりましたのでよろしくお願いします」と言われた。早速、先生を訪ねると奥様とご一緒で、初対面の私に今までの病気の経過について淡々と静かに話された。
3年ほど前に京都の本願寺で仕事をされていたときに、武田病院に最新鋭のMRIが入ったということで、試みに撮ってもらった。肝臓に小さな陰があり、愛知がんセンターで手術してもらった。開腹すると進行した肝内胆管がんで、摘出しない方がいいという判断でそのまま閉じられた。自覚的には無症状で、検査して初期のがんだろうと思って手術したら末期がんといわれ、文字通り青天の霹靂の出来事であった。その後も京都の本願寺の要職をこなされながら、現在に至っているということだった。
この村永先生、私は今まで存じ上げなかったが、その道では素晴らしい足跡を残された方である。桜島町の西寿寺住職であったが、ここ十数年は主に京都の本願寺を中心に仕事をされ、土日に帰って来るという生活が続いたという。長倉先生の弁では、健康なら西本願寺の総長(内閣総理大臣)は間違いなかったのだという。
その後、時々お邪魔しては世間話や死に臨んでの仏教の教えなどもお聞きした。ちょうど亡くなられる1週間ほど前に伺ったときには奥様に命じて体を起こされて、隠れ念仏の話をしてくださった。薩摩のかくれ念仏についての殉教(じゅんきょう)秘話、『血は輝く』(佐々木教正著)が絶版となっているので、その再版をしたいという夢を語ってくれた。長倉先生によると、佐々木さんは村永先生の実父にあたる方で、真宗の布教のために知覧にあった大きなお寺から桜島に移り住み、石を投げられたり放火を受けるなどの苦労を重ねながら、現在の西寿寺を創建された人であるという。一方では、殉教者の話を集めて、この「血は輝く」という一冊の本にまとめられたのだという。
薩摩藩は武士階級制の強い藩だったので、浄土真宗の「生きとし生けるものすべて平等」という考え方を嫌ったようで、厳しい真宗禁止を行った(1550年頃以降)。そのため藩の役人の目を逃れて仏を拝んだり修行するために造られた洞窟に身を隠したり、殉教者の話など、現代の鹿児島からは想像できない悲惨なことがあったのだという。鹿児島西本願寺別院の境内には、親鸞上人の銅像の横に涙石が置かれている。役人たちが信者の疑いのある者を捕らえて、この石を抱かせて自白を迫ったと伝えられている。信者たちの苦しみの涙がそそがれた石、という意味だそうである。
村永先生の終末は、毎朝、窓の外にひろがる桜島や錦江湾を眺めながら、静かで厳かで、それでも腹水を抜きながら京都に出かけるなど、自分の任務を立派に果たされた。いかにも仏教を修めてこられた偉い僧侶にふさわしい日々で、静かで穏やかで荘厳な雰囲気の中で浄土に旅立たれたといえる。
