熊本地震(2016/04/18)
昨日、伊佐市でお元気に一人暮らしをされている89歳の田之上さんに電話することだった。「70年も経つ家なので、熊本みたいな地震がきたら、ぺしゃんこになりますね」「長生きされていると、いろんなことに遭遇しますよ。でも自立して生活できるということは、社会への大きな貢献ですので今後も頑張ってくださいね」
今回の熊本地震、何度も言い古されてきた「想定外」のことも多く、その凄まじさは想像を絶するものがある。現在も進行中なのでどのような形で収束をみせるのか予断しがたく、焦燥と不安の真っただ中にある。一日も早く元の平穏な生活に戻れることを願っている。
海外だけでなく東京辺りからでも、「九州」という言葉で一括りにされているが、熊本とは隣県とはいえ鹿児島は現在のところは家屋が揺れるぐらいで実質的な被害はない。もちろん、親戚や知人が熊本にいる人は多いわけで、そのような意味では東日本大震災とはちょっと違うのかもしれない。私も息子の嫁の実家が菊池市泗水町というところで、今回の震源の真上に近いところにあり、大きな災害を被っているようである。何か手伝うことがあればとも思うが、高速道路も新幹線も不通であり、思いはあっても何もできないもどかしさがある。
医療面でも何かできたらとも思うが、単独で行動することは却って問題になることも多く、要請があれば病院としてできるだけのことはしたいと考えている。南九州病院の時には国立病院機構として医療面、看護面での割りあてが決められていた。おそらく熊本県は国立病院機構、日赤、済生会など、日本で最も病院間のネットワークのしっかりした県という定評もあり、きちんとした統制のもとで行われるのではないだろうか。現在のところは鹿児島県では、米盛病院が中心になってヘリによる救急搬送が行われているという。荒川室長が連携室同士の連絡を取り合って処理してくれている。また断水で透析患者が困っているようなので、県医師会からの要請もあり、「30人ほどの入院患者は受け入れ可能」と江藤事務長とも話し合って返事することにした。内田先生、前村技師長、そして看護部にはよろしくお願いしたい。 また土曜日の夕方は、江藤事務長、施設管理課の川畑課長、川畑紘一さんの3人がレンタカーに米や水、カップラーメンなどを積み込んで、熊本済生会病院に向かった。済生会病院には正木さんをはじめこれまでもお世話になっており、ささやかなご恩返しである。高速は使えないので一般道で大変だったかと思われるが、後で聞いたところでは23時半ごろに帰りついたとか。途中で食べるものがなく、帰り着いてから食事をとったという。
支援には短期的なものと長期的なものがある。後者については今後の動向を見ながら、職員みんなで話し合いながら決めていきたい。
311の東日本大震災の頃に書いたものを読み返してみると、当時の状況が思い出され、少し参考になる。時間のある時にでも読んでみてください。
■ 大震災は日本人に「覚悟」を突きつけた
人間、追い風に乗っている時には何をやってもうまく行くものだが、逆になると全てが裏目に出てしまう。このことは、大震災後の菅総理にも当てはまりそうである。
「現場に素早く飛ぶ、行動するトップリーダー」というパフォーマンスを示そうと、被災地と東京電力福島原子力発電所を震災発生の翌日に視察したが、この時に東電側の応対のために初期対応が後手に回ったとの批判である。
真偽のほどはともかく、震災後のテレビを通しての国民へのメッセージに、国のトップとしての物足りなさを感じている人は多いのではないだろうか。はたしてこの人で、未曾有の国難を乗り切れるかという不安が、先ほど行われた統一地方選挙の結果にも表れている。この問題ばかりでなく政権獲得後の民主党の政策や人事をみていると、長期的な展望や洞察力に欠け、行き当たりばったりのような印象を受けてしまう。反官僚を錦の御旗にしているが、内実は「お友達」人事の素人政権の域を超えていない。批判している官僚制度は問題点はあるにせよ、日本の戦後復興を支えてきたのは事実である。
また震災後、記者会見などで震災復興や原子力発電所についても言及したが、特にこの事態に対して一国の総理の言葉として胸に響くものはなかった。このようなときには、具体的な対策を未来志向でわかりやすく説明することはもちろんのこと、自分の言葉で「哲学」を語り、国民一人ひとりに「反省と覚悟」を訴え、「これまでの日本でいいのか」というようなメッセージが欲しかったのである。
顧みれば戦後65年、焦土と化した国土から出発した日本は、先人の必死の努力により経済的には奇跡の復興を果たした。ただこの復興の過程で余りにも物質的な豊かさと効率を追求したがために、多くの副作用をもたらす結果となった。今回の原子力発電所の事故も、その象徴のような気もする。私たちの中学の教科書では、日本は急峻な河川が多いのでそれを利用して水力発電が盛んであると習ったものだが、今や電力の3割強は原子力ということである(ちなみに水力は7%とか)。 東京電力管内で施行された計画停電をみれば、いかに原子力に依存してきたかがよくわかる。また東京の電力供給が東北や北陸地方にこれほど依存している現実も明らかとなった。今やコンセントをつなげば、容易に電気が得られる便利な生活に慣れきっている。だからといって、原子力エネルギーを直ちにやめて、昔の生活に戻ることが可能かといえば話はそう簡単ではない。今の日本人に、生活の質を落とす覚悟ができているだろうか。一度便利な生活を手にしたものが、昔の生活に戻れるはずがない。せいぜい、節電の域である。東京都知事に4選された石原知事でさえ簡素な生活を説いていたが、「あなただけに は言われたくないよ(外遊では超豪華ホテルに宿泊して非難を受けた)」というのが私の率直な感想である。
原発依存からの脱却にはもちろん賛成するが、代替エネルギーの見通しがなければ机上の空論に過ぎない。
一方では日本の戦後復興は、山紫水明の美しい国土を荒廃させ、人心の退廃を招きつつある。東京都に代表されるような過度な一極集中により地方では過疎と高齢化が進み、緑なす「まほろば」とうたわれた美しい田園は、雑草地となっている。
このような時代に、小さな島国日本は何百年に一度といわれる国難に見舞われたのである。文字通り「災い転じて福となす」ということわざがある。我々はこの惨事から、反省と教訓を学び、覚悟を新たにしなければならない。
今一度、古来日本人が大切にしてきた「簡素な文化」を思い起こし、「新しい生き方モデル」を創造しなければならない。
かごしまでは穏やかな春の天気が続いている。夜明けも早くなって、病院に着いた時にも明るくなってきた。原発の先行きに収束への工程が見えないので苛立ちが募っているが、これが原発事故の恐ろしいところなのだろう。
■ 大震災からこの一月(前)
あの3月11日の東日本大震災と東京電力福島原子力発電所の大惨事と、日本を突然襲った未曾有の悪夢のような国難から一月が経ってしまった。あの頃はまだ固いつぼみだった桜も満開となり、今や病院の桜は葉桜となっている。過去の災害では、一月も経つと復興への道筋も立って来る頃だが、今回はまだ被災地の状況はほとんど変わらないようである。さらに原子力発電所事故の収束は目途も立たず、日本国民誰しも心安らかになれない日が続いている。
些細なことであるが、私も長年続けてきた毎朝の院内ランの「雑感の部分」を、3月16日を最期に取りやめてきた。院内には事務的な必要事項を中心に、ダイジェスト版として発信してきた。特段大きな理由で止めたわけでもなかったが、気分的に書く気力がなくなったことや、テーマの選択が難しくなったからである。何を書いても受け取りようによっては「この時代に、そんなにのんきでいいの」と言われかねない雰囲気にあった。そして何より、いかに言葉を弄しても被災者の苦しみは、その当人でしかわからないという峻厳な現実の前に立ちすくんでしまった。
3月13日に、作家の林真理子が、「寿司ネタのうちウニや貝など多くは北海道や東北からのもので、店員からは『最後のお魚ですね』『当分船が出せないでしょう』」と言われ、『元気を出そうと思って行ったお鮨やで、また(地震の)現実をつきつけられた感じ』とブログで感想を述べた。すると、ブログの内容は「不謹慎では」という声があがり、書き込みには「(店に)行っても構わないけど黙っとけ」とか、「お寿司屋さんに行ったことや、そこでのやり取り自体は悪くない。マスコミも一般人も被災した方達に配慮した報道や言動をしているのに、あまりにも無神経な(タイミングで公開した)ブログでは」などが踊ったという。震災後の2日後でこのような大惨事の全容がつかめなかった時でもあり、林には全く悪気などなかったわけで、特に問題視するほどの内容ではないと私は個人的には思っている。
また震災後、多くの学会が中止となったが、東京での開催は会場が避難所となっていたりと中止するのはよくわかるが、西日本で行われる学会まで中止する必要があるだろうか。5月に名古屋で開催予定の日本神経学会は色々考えた末に、開催することになったという。もちろん会長招宴などのパーティーは自粛することになり、新しい企画として「神経内科医にできる災害支援は何かについて考える緊急フォーラム」を開催するという。時宜にかなった英断だと思う。
どうも日本人は、基本的には異常に真面目な民族で、ルールをきちんと守り、今回の計画停電も平時では考えられもしないことを粛々と我慢しながら励行している。東北地方の避難所での映像を見ると、本当に我慢強いなと感心してしまう。もっとも現状では、我慢以外に選択の余地もないのかもしれない。ただ横並び意識も強く、自粛の強要なのか歓送迎会をしたことが何か悪いことでもしたかのように報じられる。鹿児島県のある警察署で、津波警報の発令中に送別会をしたことがマスコミで叩かれたことは論外としても、一律の行事自粛などしてしまうと地域経済も、ひいては日本経済まで危うくする。
さて復興には長期戦は必至であり、日本を一つと考える時に、まずは被害に遭わなかった地域をより活性化させ、そして東北地方を支援する体制こそ賢明な判断といえるのではないだろうか。先日、宮城県知事が、菅総理に「自粛だけでなく、日本経済を全体として浮揚させるような方策を考えて下さい」と進言されたという。心からの同情と恭順の気持ちを示したとしても、そこからは何も生まれない。
私も一月が経ったことを節目に、テーマを選びながら、時々また書いていきたいと思っている。
■ 大震災からこの一月(中)
今回の震災後、日経新聞の文化欄には、さまざまな識者が随想を寄せたり編集委員の質問に答えている。思いつくだけでも山下一史さん(音楽の出番を待つ)、山折哲雄さん(自然の猛威をまえにして)、藤本義一さん(一人の友を無言で語る)、阿刀田高(新しい生き方を求めて)、石山修武(世界一の港町)、伊集院静(再生への術人のつながり)、岡井隆(大震災後に一歌人の思ったこと)などで、被災地と何らかの関わりを持つ人ばかりである。いずれも飾ることなく自分の気持ちを率直に表現しており、納得と胸を打つものが多い。 とりわけ私の心に強く残ったのは、阿刀田さんと伊集院さんの文章である。
阿刀田さんは両親が共に仙台市の出身で、現在日本ペンクラブ会長の責にある。「言葉がむなしい」で始まり、「・・・多少の志があっても、目下のところ、ましな援助はなにひとつできない。だがあえていえば、私と似たり寄ったりの立場や心境の人は全国にたくさんいるにちがいない。せめて今の志をいつまでも長く保ち続けること、それが人としての甲斐性だろう。・・・死者に対してはひたすらの哀悼を捧げること、くやしいけれどそれよりほかになにもない。どう悼んでみても畢竟、生きとし生けるものの悲しさにたどりつくばかりだ。・・・だがもうひとつ、たがいに助け合う心は、だれにとっても肝要な論理であるが、合理の尊重も大切だ。救援活動であれ今後の対策であれ、冷静に、合理的に対処することを心がけなければなるまい。・・・そして、その背後にあるのは、人はどう生きればよいか、という命題だ。ここ数十年、私たちは物の豊かさを求めすぎたのではあるまいか。貧しくとも心の豊かな生活はありうる。もともとこの国は貧しかったのだ。貧しいからこそ”読み書き算盤”を旨として知力を高め、世界第一の識字率を誇るようにもなった。文化の面でも俳句や短歌など筆一本紙一枚で心の豊かさを培う文学を広めて高めた。・・・私たちは簡素であることを尊ぶ伝統がある」
伊集院さんは仙台市内の自宅で執筆中に被災した。「傷ついた社会の再生には人と人とがつながるしかない」と訴える。「・・・作家の中にはもう書けないという人が出てくるかもしれない。そうした人は、今までの作品で本当の絶望をのぞいていなかったのではないだろうか・・・さらに買い占めが起きていると報じられている。自分さえよければいいという行動を見ると、想像以上に社会が虚無化していると感じる。自粛するというわけではなく、基本的に質素な生活にどう変えていくかが問われている。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の精神が必要だ」「絶望を乗り越えるための他者とのつながりに必要なのは、無条件の敬愛だ。誰しも居場所がない、生きていていいのかといった思いに襲われることはあるだろう。そんなときには、まずは誰かに手をさしのべてみることだ。その手は必ず握り返されるはずだ。行動でもあり、精神の動きでもある。人は出会うと必ず別れる、出合った瞬間から別れる悲しみを内包して人は付き合っていくものだという、文学の根本にあるもう一つの感覚が真実だとしても」
また阿刀田さんが、今後の日本の未来は容易でないが、新しい生き方を模索する時に小説家の出番があるかもしれないと書いている。また仙台フィル指揮者の山下氏は、「音楽の出番は必ず来る。その時仙台フィルと地元の結びつきは、精神的な面でも今より一層強固なものになっているだろう」と述べている。
私は長年、筋ジストロフィーと闘う青年たちの生き方を見てきたが、厳しい状況の中でも絵画や短歌を創作し、日高君のように手でできなくなったらパソコンでと一生懸命に生きている人は確実に長生きしている。もう少し落ち着いたら、「芸術家の出番」は必ずやってくる。
■ 大震災からこの一月(後)
私の10代から20代の青春時代はいわゆる「岩波少年」で、岩波書店から発刊される書籍には毎月目を通し、そしてどういうわけか理由なく崇拝していた。岩波は他の出版社より、格式が数段高いと考えていた節がある。なかでも、寺田寅彦と和辻哲郎の著作は、意味もよくわからないまま、読んだものである。
さて寺田寅彦は東大教授で物理学者であるが随筆家でもあり、夏目漱石の友だちだった。そのため『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれた。ただ昭和10年に亡くなられているので、私とは時代は共有していない。
一方の和辻哲郎は東大教授で哲学者で、昭和35年に亡くなられているのでいくらか時代を共有している。『古寺巡礼』や『風土』などの著作で有名である。
今回の大震災を契機に、寺田寅彦の遺した記述がよく話題になっているが、宗教学者の山折哲雄は、和辻哲郎との比較でこの問題を論じている(2011年4月10日、南日本新聞)。
山折によると、二人は西欧と比較して日本の「風土」の特質を、数千年という長い単位で明らかにしようとした点で共通点があるという。ところが今回のような自然の猛威に対する捉え方では、大きな相違もある。
寺田は文明が進めば進むほど災害は激烈の度を増し、日本は西欧に比し地震、津波、台風の脅威は大きく、そのため科学は自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を蓄積していくことで形成された。そこから日本人は、仏教の無常観に通じるものを見いだしていた。
一方和辻は西欧の「牧場」的風土に対して、日本の「モンスーン(台風)」的風土を対比させている。その特徴は熱帯的・寒帯的(大雨と大雪)という二重性格と季節的・突発的(感情の持久と激変)の二重性に規定される(不思議なことに、寺田と異なり地震にはあえて触れていない。関東大震災を経験していたのに)。そこからモンスーン的、台風的風土における日本人の受容的、忍従的な生活態度が生み出されたとする。和辻のいう「しめやかな激情」「戦闘的な恬淡(てんたん)」という逆説的な国民的性格を持つようになったのも、台風的風土の二重性に根本的な原因があるという。
また和辻がその感情の二重性格をもとに、仏教における煩悩即菩提(迷いはすなわち悟り)という逆説的な思想も生み出されたという。そしてその対立を解決する規範として、「慈悲の道徳」も形成された。
ところが相反するように見える二人の考え方には、共通の視点も内包されている。すなわち西欧の科学が自然に対して攻撃的、征服的であったのに対して、日本の科学的認識は受容的で、対症療法的であったことだ。
文字通り亀裂の入った日本列島をこれからどのように立て直し、復興させていくかを考える時、寺田と和辻の分析にも目を配しつつ考えて行かなくてはならない課題だと結んでいる。
(ここからは私の感想)ただいえることは、最近の少し傲慢になった日本人はこのような先人の知恵に学ばなかったのではないか。地震大国にも拘わらず、自信過剰になり列島の至る所に原発を設置してしまった。今回のような大津波は「想定外」といえなくもないが、和辻的な災害を越えて寺田的大災害に遭遇したことになる。
今回の熊本地震、何度も言い古されてきた「想定外」のことも多く、その凄まじさは想像を絶するものがある。現在も進行中なのでどのような形で収束をみせるのか予断しがたく、焦燥と不安の真っただ中にある。一日も早く元の平穏な生活に戻れることを願っている。
海外だけでなく東京辺りからでも、「九州」という言葉で一括りにされているが、熊本とは隣県とはいえ鹿児島は現在のところは家屋が揺れるぐらいで実質的な被害はない。もちろん、親戚や知人が熊本にいる人は多いわけで、そのような意味では東日本大震災とはちょっと違うのかもしれない。私も息子の嫁の実家が菊池市泗水町というところで、今回の震源の真上に近いところにあり、大きな災害を被っているようである。何か手伝うことがあればとも思うが、高速道路も新幹線も不通であり、思いはあっても何もできないもどかしさがある。
医療面でも何かできたらとも思うが、単独で行動することは却って問題になることも多く、要請があれば病院としてできるだけのことはしたいと考えている。南九州病院の時には国立病院機構として医療面、看護面での割りあてが決められていた。おそらく熊本県は国立病院機構、日赤、済生会など、日本で最も病院間のネットワークのしっかりした県という定評もあり、きちんとした統制のもとで行われるのではないだろうか。現在のところは鹿児島県では、米盛病院が中心になってヘリによる救急搬送が行われているという。荒川室長が連携室同士の連絡を取り合って処理してくれている。また断水で透析患者が困っているようなので、県医師会からの要請もあり、「30人ほどの入院患者は受け入れ可能」と江藤事務長とも話し合って返事することにした。内田先生、前村技師長、そして看護部にはよろしくお願いしたい。 また土曜日の夕方は、江藤事務長、施設管理課の川畑課長、川畑紘一さんの3人がレンタカーに米や水、カップラーメンなどを積み込んで、熊本済生会病院に向かった。済生会病院には正木さんをはじめこれまでもお世話になっており、ささやかなご恩返しである。高速は使えないので一般道で大変だったかと思われるが、後で聞いたところでは23時半ごろに帰りついたとか。途中で食べるものがなく、帰り着いてから食事をとったという。
支援には短期的なものと長期的なものがある。後者については今後の動向を見ながら、職員みんなで話し合いながら決めていきたい。
311の東日本大震災の頃に書いたものを読み返してみると、当時の状況が思い出され、少し参考になる。時間のある時にでも読んでみてください。
■ 大震災は日本人に「覚悟」を突きつけた
人間、追い風に乗っている時には何をやってもうまく行くものだが、逆になると全てが裏目に出てしまう。このことは、大震災後の菅総理にも当てはまりそうである。
「現場に素早く飛ぶ、行動するトップリーダー」というパフォーマンスを示そうと、被災地と東京電力福島原子力発電所を震災発生の翌日に視察したが、この時に東電側の応対のために初期対応が後手に回ったとの批判である。
真偽のほどはともかく、震災後のテレビを通しての国民へのメッセージに、国のトップとしての物足りなさを感じている人は多いのではないだろうか。はたしてこの人で、未曾有の国難を乗り切れるかという不安が、先ほど行われた統一地方選挙の結果にも表れている。この問題ばかりでなく政権獲得後の民主党の政策や人事をみていると、長期的な展望や洞察力に欠け、行き当たりばったりのような印象を受けてしまう。反官僚を錦の御旗にしているが、内実は「お友達」人事の素人政権の域を超えていない。批判している官僚制度は問題点はあるにせよ、日本の戦後復興を支えてきたのは事実である。
また震災後、記者会見などで震災復興や原子力発電所についても言及したが、特にこの事態に対して一国の総理の言葉として胸に響くものはなかった。このようなときには、具体的な対策を未来志向でわかりやすく説明することはもちろんのこと、自分の言葉で「哲学」を語り、国民一人ひとりに「反省と覚悟」を訴え、「これまでの日本でいいのか」というようなメッセージが欲しかったのである。
顧みれば戦後65年、焦土と化した国土から出発した日本は、先人の必死の努力により経済的には奇跡の復興を果たした。ただこの復興の過程で余りにも物質的な豊かさと効率を追求したがために、多くの副作用をもたらす結果となった。今回の原子力発電所の事故も、その象徴のような気もする。私たちの中学の教科書では、日本は急峻な河川が多いのでそれを利用して水力発電が盛んであると習ったものだが、今や電力の3割強は原子力ということである(ちなみに水力は7%とか)。 東京電力管内で施行された計画停電をみれば、いかに原子力に依存してきたかがよくわかる。また東京の電力供給が東北や北陸地方にこれほど依存している現実も明らかとなった。今やコンセントをつなげば、容易に電気が得られる便利な生活に慣れきっている。だからといって、原子力エネルギーを直ちにやめて、昔の生活に戻ることが可能かといえば話はそう簡単ではない。今の日本人に、生活の質を落とす覚悟ができているだろうか。一度便利な生活を手にしたものが、昔の生活に戻れるはずがない。せいぜい、節電の域である。東京都知事に4選された石原知事でさえ簡素な生活を説いていたが、「あなただけに は言われたくないよ(外遊では超豪華ホテルに宿泊して非難を受けた)」というのが私の率直な感想である。
原発依存からの脱却にはもちろん賛成するが、代替エネルギーの見通しがなければ机上の空論に過ぎない。
一方では日本の戦後復興は、山紫水明の美しい国土を荒廃させ、人心の退廃を招きつつある。東京都に代表されるような過度な一極集中により地方では過疎と高齢化が進み、緑なす「まほろば」とうたわれた美しい田園は、雑草地となっている。
このような時代に、小さな島国日本は何百年に一度といわれる国難に見舞われたのである。文字通り「災い転じて福となす」ということわざがある。我々はこの惨事から、反省と教訓を学び、覚悟を新たにしなければならない。
今一度、古来日本人が大切にしてきた「簡素な文化」を思い起こし、「新しい生き方モデル」を創造しなければならない。
かごしまでは穏やかな春の天気が続いている。夜明けも早くなって、病院に着いた時にも明るくなってきた。原発の先行きに収束への工程が見えないので苛立ちが募っているが、これが原発事故の恐ろしいところなのだろう。
■ 大震災からこの一月(前)
あの3月11日の東日本大震災と東京電力福島原子力発電所の大惨事と、日本を突然襲った未曾有の悪夢のような国難から一月が経ってしまった。あの頃はまだ固いつぼみだった桜も満開となり、今や病院の桜は葉桜となっている。過去の災害では、一月も経つと復興への道筋も立って来る頃だが、今回はまだ被災地の状況はほとんど変わらないようである。さらに原子力発電所事故の収束は目途も立たず、日本国民誰しも心安らかになれない日が続いている。
些細なことであるが、私も長年続けてきた毎朝の院内ランの「雑感の部分」を、3月16日を最期に取りやめてきた。院内には事務的な必要事項を中心に、ダイジェスト版として発信してきた。特段大きな理由で止めたわけでもなかったが、気分的に書く気力がなくなったことや、テーマの選択が難しくなったからである。何を書いても受け取りようによっては「この時代に、そんなにのんきでいいの」と言われかねない雰囲気にあった。そして何より、いかに言葉を弄しても被災者の苦しみは、その当人でしかわからないという峻厳な現実の前に立ちすくんでしまった。
3月13日に、作家の林真理子が、「寿司ネタのうちウニや貝など多くは北海道や東北からのもので、店員からは『最後のお魚ですね』『当分船が出せないでしょう』」と言われ、『元気を出そうと思って行ったお鮨やで、また(地震の)現実をつきつけられた感じ』とブログで感想を述べた。すると、ブログの内容は「不謹慎では」という声があがり、書き込みには「(店に)行っても構わないけど黙っとけ」とか、「お寿司屋さんに行ったことや、そこでのやり取り自体は悪くない。マスコミも一般人も被災した方達に配慮した報道や言動をしているのに、あまりにも無神経な(タイミングで公開した)ブログでは」などが踊ったという。震災後の2日後でこのような大惨事の全容がつかめなかった時でもあり、林には全く悪気などなかったわけで、特に問題視するほどの内容ではないと私は個人的には思っている。
また震災後、多くの学会が中止となったが、東京での開催は会場が避難所となっていたりと中止するのはよくわかるが、西日本で行われる学会まで中止する必要があるだろうか。5月に名古屋で開催予定の日本神経学会は色々考えた末に、開催することになったという。もちろん会長招宴などのパーティーは自粛することになり、新しい企画として「神経内科医にできる災害支援は何かについて考える緊急フォーラム」を開催するという。時宜にかなった英断だと思う。
どうも日本人は、基本的には異常に真面目な民族で、ルールをきちんと守り、今回の計画停電も平時では考えられもしないことを粛々と我慢しながら励行している。東北地方の避難所での映像を見ると、本当に我慢強いなと感心してしまう。もっとも現状では、我慢以外に選択の余地もないのかもしれない。ただ横並び意識も強く、自粛の強要なのか歓送迎会をしたことが何か悪いことでもしたかのように報じられる。鹿児島県のある警察署で、津波警報の発令中に送別会をしたことがマスコミで叩かれたことは論外としても、一律の行事自粛などしてしまうと地域経済も、ひいては日本経済まで危うくする。
さて復興には長期戦は必至であり、日本を一つと考える時に、まずは被害に遭わなかった地域をより活性化させ、そして東北地方を支援する体制こそ賢明な判断といえるのではないだろうか。先日、宮城県知事が、菅総理に「自粛だけでなく、日本経済を全体として浮揚させるような方策を考えて下さい」と進言されたという。心からの同情と恭順の気持ちを示したとしても、そこからは何も生まれない。
私も一月が経ったことを節目に、テーマを選びながら、時々また書いていきたいと思っている。
■ 大震災からこの一月(中)
今回の震災後、日経新聞の文化欄には、さまざまな識者が随想を寄せたり編集委員の質問に答えている。思いつくだけでも山下一史さん(音楽の出番を待つ)、山折哲雄さん(自然の猛威をまえにして)、藤本義一さん(一人の友を無言で語る)、阿刀田高(新しい生き方を求めて)、石山修武(世界一の港町)、伊集院静(再生への術人のつながり)、岡井隆(大震災後に一歌人の思ったこと)などで、被災地と何らかの関わりを持つ人ばかりである。いずれも飾ることなく自分の気持ちを率直に表現しており、納得と胸を打つものが多い。 とりわけ私の心に強く残ったのは、阿刀田さんと伊集院さんの文章である。
阿刀田さんは両親が共に仙台市の出身で、現在日本ペンクラブ会長の責にある。「言葉がむなしい」で始まり、「・・・多少の志があっても、目下のところ、ましな援助はなにひとつできない。だがあえていえば、私と似たり寄ったりの立場や心境の人は全国にたくさんいるにちがいない。せめて今の志をいつまでも長く保ち続けること、それが人としての甲斐性だろう。・・・死者に対してはひたすらの哀悼を捧げること、くやしいけれどそれよりほかになにもない。どう悼んでみても畢竟、生きとし生けるものの悲しさにたどりつくばかりだ。・・・だがもうひとつ、たがいに助け合う心は、だれにとっても肝要な論理であるが、合理の尊重も大切だ。救援活動であれ今後の対策であれ、冷静に、合理的に対処することを心がけなければなるまい。・・・そして、その背後にあるのは、人はどう生きればよいか、という命題だ。ここ数十年、私たちは物の豊かさを求めすぎたのではあるまいか。貧しくとも心の豊かな生活はありうる。もともとこの国は貧しかったのだ。貧しいからこそ”読み書き算盤”を旨として知力を高め、世界第一の識字率を誇るようにもなった。文化の面でも俳句や短歌など筆一本紙一枚で心の豊かさを培う文学を広めて高めた。・・・私たちは簡素であることを尊ぶ伝統がある」
伊集院さんは仙台市内の自宅で執筆中に被災した。「傷ついた社会の再生には人と人とがつながるしかない」と訴える。「・・・作家の中にはもう書けないという人が出てくるかもしれない。そうした人は、今までの作品で本当の絶望をのぞいていなかったのではないだろうか・・・さらに買い占めが起きていると報じられている。自分さえよければいいという行動を見ると、想像以上に社会が虚無化していると感じる。自粛するというわけではなく、基本的に質素な生活にどう変えていくかが問われている。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の精神が必要だ」「絶望を乗り越えるための他者とのつながりに必要なのは、無条件の敬愛だ。誰しも居場所がない、生きていていいのかといった思いに襲われることはあるだろう。そんなときには、まずは誰かに手をさしのべてみることだ。その手は必ず握り返されるはずだ。行動でもあり、精神の動きでもある。人は出会うと必ず別れる、出合った瞬間から別れる悲しみを内包して人は付き合っていくものだという、文学の根本にあるもう一つの感覚が真実だとしても」
また阿刀田さんが、今後の日本の未来は容易でないが、新しい生き方を模索する時に小説家の出番があるかもしれないと書いている。また仙台フィル指揮者の山下氏は、「音楽の出番は必ず来る。その時仙台フィルと地元の結びつきは、精神的な面でも今より一層強固なものになっているだろう」と述べている。
私は長年、筋ジストロフィーと闘う青年たちの生き方を見てきたが、厳しい状況の中でも絵画や短歌を創作し、日高君のように手でできなくなったらパソコンでと一生懸命に生きている人は確実に長生きしている。もう少し落ち着いたら、「芸術家の出番」は必ずやってくる。
■ 大震災からこの一月(後)
私の10代から20代の青春時代はいわゆる「岩波少年」で、岩波書店から発刊される書籍には毎月目を通し、そしてどういうわけか理由なく崇拝していた。岩波は他の出版社より、格式が数段高いと考えていた節がある。なかでも、寺田寅彦と和辻哲郎の著作は、意味もよくわからないまま、読んだものである。
さて寺田寅彦は東大教授で物理学者であるが随筆家でもあり、夏目漱石の友だちだった。そのため『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれた。ただ昭和10年に亡くなられているので、私とは時代は共有していない。
一方の和辻哲郎は東大教授で哲学者で、昭和35年に亡くなられているのでいくらか時代を共有している。『古寺巡礼』や『風土』などの著作で有名である。
今回の大震災を契機に、寺田寅彦の遺した記述がよく話題になっているが、宗教学者の山折哲雄は、和辻哲郎との比較でこの問題を論じている(2011年4月10日、南日本新聞)。
山折によると、二人は西欧と比較して日本の「風土」の特質を、数千年という長い単位で明らかにしようとした点で共通点があるという。ところが今回のような自然の猛威に対する捉え方では、大きな相違もある。
寺田は文明が進めば進むほど災害は激烈の度を増し、日本は西欧に比し地震、津波、台風の脅威は大きく、そのため科学は自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を蓄積していくことで形成された。そこから日本人は、仏教の無常観に通じるものを見いだしていた。
一方和辻は西欧の「牧場」的風土に対して、日本の「モンスーン(台風)」的風土を対比させている。その特徴は熱帯的・寒帯的(大雨と大雪)という二重性格と季節的・突発的(感情の持久と激変)の二重性に規定される(不思議なことに、寺田と異なり地震にはあえて触れていない。関東大震災を経験していたのに)。そこからモンスーン的、台風的風土における日本人の受容的、忍従的な生活態度が生み出されたとする。和辻のいう「しめやかな激情」「戦闘的な恬淡(てんたん)」という逆説的な国民的性格を持つようになったのも、台風的風土の二重性に根本的な原因があるという。
また和辻がその感情の二重性格をもとに、仏教における煩悩即菩提(迷いはすなわち悟り)という逆説的な思想も生み出されたという。そしてその対立を解決する規範として、「慈悲の道徳」も形成された。
ところが相反するように見える二人の考え方には、共通の視点も内包されている。すなわち西欧の科学が自然に対して攻撃的、征服的であったのに対して、日本の科学的認識は受容的で、対症療法的であったことだ。
文字通り亀裂の入った日本列島をこれからどのように立て直し、復興させていくかを考える時、寺田と和辻の分析にも目を配しつつ考えて行かなくてはならない課題だと結んでいる。
(ここからは私の感想)ただいえることは、最近の少し傲慢になった日本人はこのような先人の知恵に学ばなかったのではないか。地震大国にも拘わらず、自信過剰になり列島の至る所に原発を設置してしまった。今回のような大津波は「想定外」といえなくもないが、和辻的な災害を越えて寺田的大災害に遭遇したことになる。
