Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

松原小学校の地下壕(2016/04/06) 

出水市で開業している弟からLineに、「松原小学校のことが載っているけど」というメールに続いて、南日本新聞に載った写真も添付されている。
 早速新聞でその記事を探すと、3月27日の「南日本こども新聞」というコーナーの「かごしまの戦跡」という特集記事に電源室跡(南九州市)とある。記事には「南九州市頴娃の松原小学校には、校庭の隅に海軍の地下壕が残っています。太平洋戦争中に通信施設があり、電源室として使われていました。地下壕は、古墳を思わせる小さな墳丘の下に造られていました。南側の入り口をくぐると、細い通路が地下室に続きます。・・・
 そして先日お会いした東校長は「戦争の悲惨さを伝える遺跡として大事に保存し、教育にも役立てていきたい」と結んでいる。
 さて私が松原小学校に通ったのは、5年生から鹿児島市内の原良小学校に転校したので、正確には4年5ヶ月である。この「5ヶ月」はいわくつきで、いまだに信じられないことなのだが、複式学級の回避のため頭数をそろえるために、私を含めて3人が一年早く入学したのである(戸籍のない国みたい!)。そして町の調査が終わった夏休みの頃にはお払い箱となり、「もう来なくていい」ということになったようである。当時、幼稚園もなかったので、私にはありがたいことだった。この地下壕でも、また築山のようなてっぺんでもよく遊んだものである。
 でも今考えても、松原小ほど環境的に恵まれた場所はなかったのではないだろうか。周りには人家はなく広々とした台地にあり、周りは見渡す限り菜の花畑や麦畑、そしてサツマイモが植えられていた。校庭から東の方に眼をやると、はるか向こうには秀麗な開聞岳と東シナ海がひろがっており、天気がいいとキラキラ光る海の向こうに屋久島や三島村も見ることができた。
 昨年、この小学校を訪ねたが、東校長先生が16人の全校生徒に20分ほど話をする機会を作ってくれた。そしてしばらくした後、東校長先生の「先日はご来校いただきましてありがとうございました。急なお願いを快くお引き受けいただきまして重ねてお礼申し上げます。短い時間ではございましたが、夢のような時間でした。職員も子どもたちも感動し、今でも話題となっています。私にとっても“念ずれば通ず!!”、この言葉は本当だということを実感した出来事となりました。再び頴娃に来られた意味を感じています・・・
私は新米校長ではありますが、これまで出会ってきた子どもたちや職員、保ご者、地域の方々、たくさんの出会いと経験を大事にたくましい子どもたちを育てていきたいと思います」。という丁寧なお手紙と共に、生徒全員の寄せ書きを頂いた。その寄せ書きは私の机の横の壁に貼っている。
 4日に東校長先生に電話したら、元気な声で「本当にいい小学校です。今年は一人の入学なので14人の生徒になります。・・・地域の人が応援してくださるので、存続できると思います」ということだった。松原小学校に限らず田舎の小学校は集落のコミュニティの中心としても機能しているわけで、過疎化の中でも存続してもらいたいと思う。
 先日、小学校の4年生まで一緒だった和子(当時の呼び方)が、病院に桜ヶ丘のコーヒー店で買ったコーヒーを持って来てくれた。そして60年ほど前の話に花が咲いた。「学芸会では和子と美智子と哲郎君が袴を着て晴れがましく踊ったよな。確か僕はぶんぶく茶釜のタヌキという地味な役柄で、子供心にうらやましく思ったような気がする」。この小学校には父も大正時代に通っており、私の兄と姉も卒業生である。和子の話では「私の父が、福永さんのお父さんはよくできる人で、みんなで師範学校に行けるようにと応援したそうよ」ということだった。その父も亡くなって40年が経つことになる。