Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

西之表市重症難病医療ネットワーク協議会(前)(2016/06/15) 

6月9日、鹿児島県重症難病医療ネットワーク協議会(会長は私)の研修会を、種子島の西之表市で開催することになり、私と前田君(南九州病院のケースワーカー)と奥さん(県難病相談支援センター、保健師)、そしてよしとく福祉の木村さん(意志伝達装置の専門家)の4人は、7時半発のロケットで西之表市へと向かった。
私はいつものように朝4時過ぎに病院に向かい、「日常」を済ませてから「歩数稼ぎ」の気持ちもあって、種・屋久航路の鹿児島港桟橋へと歩いて行くことにした。梅雨のさなかに計画したが、今朝は穏やかな晴天で涼風を頬に受けながら港へと急いだ。ドルフィンポートの前の芝生の公園から波静かな錦江湾、そして雄大な桜島の眺めはいつみても絶景である。
定刻に出向した高速船「ロケット」は、予想通り全く揺れることもなく定刻の9時過ぎに西之表港に到着した。「一昨年、ここに来た時と何も変わっていないけど、奥園さんがきれいになったね」と迎えに来てくれた西之表保健所の難病担当の奥園さんに冗談を言いながら車で会場の市民会館へと向かった。
本来なら朝は患者訪問を計画するのだが、お目当ての患者さんは大学病院に入院中とのことで、昼からの段取りの打ち合わせや会場設営などをすることにした。昼食はいつも500円の弁当が定番であるが、この日は奥園さんが会場から車で5分ほどの洒落たランチサービスを提供してくれるお店を案内してくれた。染物や陶芸教室もされておられるという店主の心のこもった手料理を食べながら、眼下に見渡せる海の青さも印象に残った。
13時より研修会となった。出席者は病院やさまざまな介護施設の実務担当者で、この手の会議で61人もの参加者があるというのは異例のことだという。難病のALSへの関心が深まったこと、また種子島にはALSの患者さんが多いこと(なんと多い時には10人もおられたが現在は5人)でいろんな形でかかわる人が多いこと、地域で難病患者を支える体制が出来つつあることの表れでもあると思い、心強く頼もしく感じることだった。また田上病院から、この4月に種子島医療センターと名称変更した病院の院長である高尾先生も出席してくれていた。
私の講演のタイトルは「日本の難病対策の新しい時代~ALSと難病法~」で、要旨を「①難病相談から見えてくるもの、②ALS概論、③難病法の成立、その過程と意味するもの、そして今後」とした。
昨年の一月一日に施行された「難病法」の理念は、一つは自宅で療養できる環境を整備すること、もう一つは就労の機会を保障すること、そして共生社会の実現を図ることだった。この理念の創設には、難病対策委員会委員長だった故金澤先生の御意志と、副委員長だった私の経験も下敷きになっている。
先日の「宇尾野先生を偲ぶ会」でも紹介したが、昭和49年に府中病院時代に務めていたときに、重症筋無力症の18歳の女性との出会いがあった。彼女の夢は「美容師になること」で、その後も40年間、病気と闘いながらも雇用主の理解もあって自宅で母親の介護もしながら立派に仕事を続けることができた。
もう一人は昭和59年に関わりが生まれ、そのことが私に在宅での人工呼吸管理の重要さと在宅療養の素晴らしさを教えてくれた43歳のALSの男性の話を紹介した。当時大口保健所長だった濱田先生から「地域で、2年間ひと時も休まずに子ども2人と母親の3人で、用手の人工呼吸をしている家族がいるんだが、どうにかならんかね」という電話がきっかけだった。家族の、地域の、そして関係する医療機関のちょっとしたサポートがあれば、介護保険のない時代でも最後まで自宅で看取ることができたのである。