宇尾野先生を偲ぶ会(後)(2016/06/10)
まず溝口先生(国立病院機構静岡富士病院院長)の挨拶に始まり、佐橋先生(前愛知医科大学神経内科教授)が白い菊の花を献花したのち、佐橋先生と私が「追悼の言葉」を捧げた。(私の部分を下記に)
宇尾野公義先生への「別れの言葉」
本日の「故宇尾野公義先生を偲ぶ会」に出席と、そしてまた「別れの言葉」を捧げる機会を頂きましたこと、心より感謝申し上げます。先生のご略歴やご業績に関しては、さきほど一番弟子だった佐橋先生がお話されましたので、あえて繰り返しません。
私は医師としての大半を難病の臨床や研究に取り組んできましたが、そのきっかけをつくってくださったのが宇尾野先生と佐橋先生でした。
とりわけ宇尾野先生には、神経学の基礎を教えていただいたのは勿論のこと、医師としてのたしなみや躾けまで教育してもらったように思います。私が府中病院でお世話になったのは昭和49年7月からのほぼ2年間でした。ある時、散髪に行かずに髪をぼうぼうで病院に来たことがありましたが、その時に先生は「医師は2週間に一回ぐらいは、散髪屋さんに行きなさい」と、たしなめていただいたこともありました。
その後、私は鹿児島に戻り、いくつかの病院を回ったのちに、昭和55年から3年間、メーヨークリニックのエンゲルラボに留学しました。偶然にも佐橋先生とはすれ違いでしたが、留学先が同じだったことはこれも何かの縁だと思います。また昭和59年から国立療養所南九州病院で働くことになって、宇尾野先生には同じ国立病院で働く医師として何かと心にかけていただき、これも感謝に堪えません。
昨年の1月1日、新しい難病法が施行されました。私も難病対策委員会の副委員長として関わりましたが、その理念は共生社会の実現であり、たとえ難病になっても地域で暮らし、就労の機会も保証したいということでした。
府中病院で働いていたときに、重症筋無力症で闘病していた18歳の米山政江さんという可愛い高校生がおりました。彼女の夢は美容師になりたいということでしたが、その後の40年間で見事に実現させました。私は難病対策委員会での法律の策定にあたって、彼女のことが忘れることができませんでした。この法律はまさに米山さんの夢の実現でもあり、これも宇尾野先生の思いにもつながるものと思います。
今後も、先生のライフワークでもありました難病のケア・システムの構築に向けて努力して参りたいと思います。
その後、元重症筋無力症友の会代表の横尾宏さんの挨拶、スライドで流される思い出の写真を見ながら紅野泉さん(友の会静岡県支部長)のお話、ご遺族からの御礼の言葉で偲ぶ会は終了した。
偲ぶ会が終わると、私は14時10分の沼津駅発の東海道線に飛び乗って、今朝来た経路と全く逆の経路で鹿児島へと向かった。「たった45分の偲ぶ会のため」と思わないでもないが、お世話になった恩師の一人との別れであり、十分に値すると思うことだった。
宇尾野公義先生への「別れの言葉」
本日の「故宇尾野公義先生を偲ぶ会」に出席と、そしてまた「別れの言葉」を捧げる機会を頂きましたこと、心より感謝申し上げます。先生のご略歴やご業績に関しては、さきほど一番弟子だった佐橋先生がお話されましたので、あえて繰り返しません。
私は医師としての大半を難病の臨床や研究に取り組んできましたが、そのきっかけをつくってくださったのが宇尾野先生と佐橋先生でした。
とりわけ宇尾野先生には、神経学の基礎を教えていただいたのは勿論のこと、医師としてのたしなみや躾けまで教育してもらったように思います。私が府中病院でお世話になったのは昭和49年7月からのほぼ2年間でした。ある時、散髪に行かずに髪をぼうぼうで病院に来たことがありましたが、その時に先生は「医師は2週間に一回ぐらいは、散髪屋さんに行きなさい」と、たしなめていただいたこともありました。
その後、私は鹿児島に戻り、いくつかの病院を回ったのちに、昭和55年から3年間、メーヨークリニックのエンゲルラボに留学しました。偶然にも佐橋先生とはすれ違いでしたが、留学先が同じだったことはこれも何かの縁だと思います。また昭和59年から国立療養所南九州病院で働くことになって、宇尾野先生には同じ国立病院で働く医師として何かと心にかけていただき、これも感謝に堪えません。
昨年の1月1日、新しい難病法が施行されました。私も難病対策委員会の副委員長として関わりましたが、その理念は共生社会の実現であり、たとえ難病になっても地域で暮らし、就労の機会も保証したいということでした。
府中病院で働いていたときに、重症筋無力症で闘病していた18歳の米山政江さんという可愛い高校生がおりました。彼女の夢は美容師になりたいということでしたが、その後の40年間で見事に実現させました。私は難病対策委員会での法律の策定にあたって、彼女のことが忘れることができませんでした。この法律はまさに米山さんの夢の実現でもあり、これも宇尾野先生の思いにもつながるものと思います。
今後も、先生のライフワークでもありました難病のケア・システムの構築に向けて努力して参りたいと思います。
その後、元重症筋無力症友の会代表の横尾宏さんの挨拶、スライドで流される思い出の写真を見ながら紅野泉さん(友の会静岡県支部長)のお話、ご遺族からの御礼の言葉で偲ぶ会は終了した。
偲ぶ会が終わると、私は14時10分の沼津駅発の東海道線に飛び乗って、今朝来た経路と全く逆の経路で鹿児島へと向かった。「たった45分の偲ぶ会のため」と思わないでもないが、お世話になった恩師の一人との別れであり、十分に値すると思うことだった。
