Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

五代友厚(後)(2016/06/08) 

まず徳永さんと五代との出会いは、昭和48年に松下電器(株)人事部の新入社員教育課長時代に、日本経済史が専門の大阪大学の宮本教授(学士院会員)宅に「松下幸之助の経営に大阪商人の知恵がどう影響しているか」についての講演依頼の時だった。車の中で、君はどこの出身か」と聞かれて、「鹿児島です」と答えた。すると「五代友厚は知っているか」と尋ねられたので「知りません」と答えたら、「それはいかん。大阪では五代友厚は大恩人だ。しっかり勉強するように」と諭されたのだという。
ところで五代友厚は1835年に、我が南風病院と同じ長田町に薩摩藩の上級武士の子として生まれている。13歳の時に島津斉彬より世界地図模写を頼まれ、一枚を自分の部屋の地球儀に飾ってずっと見続けていたという。この頃からイギリスへの関心が芽生えたようである。地図で見るとこんなに小さな国が、世界の最強国(当時)でおられるのはなぜなのかと。22歳で長崎海伝習所に留学し、勝海舟や坂本竜馬などとの親交ができた。28歳の薩英戦争で捕虜となった(そのため薩摩では評判が悪かった)が、小松帯刀に上申書を書き身の潔白が晴れて帰藩を許された。ただ捕虜の間イギリス艦船の中で、イギリス高官と得意の英語で堂々と渡り合い、薩英戦争での鹿児島の被害を少なくすることに貢献したことは知られていない。「それにしても日本の一藩が大英帝国と戦争するということは驚くに値することである」と徳永氏。
30歳で薩摩藩14人の留学生と4人の使節の代表として欧州派遣。31歳で小銃、蒸気船、紡績機械など購入して帰国している。32歳の時に坂本龍馬は、五代から聞いた上申書など参考に、船中八策を書いたと言われる。34歳で、外国官権判事や大阪府判事の職にあったが、官を辞している。
実業家としてさまざまな事業に乗り出し、大阪にニュービジネスモデルを構築した。また現在の大阪市立大学の創設にも関わっている。同じ留学生だった森有礼は一橋大学の創設にかかわっており、薩摩の二人がビジネス界で活躍する若人の育成にも関わったということは、誇りを持って記憶にとどめたい。
なぜ官を辞して民に下ったのかについてはさまざまな説があるようだが、本当のところはわかっていない。当時は官上位の時代である。徳永さんは江戸時代に薩摩藩は大阪の豪商から多額の借金を踏み倒した歴史があるため、当時疲弊していた大阪の街の復興を考えたのではないか、薩摩藩の汚名を晴らそうとする義侠心も働いたのではないかと推測している。
五代の生き方から何を学び、どう生かすかについて、一言でいえば、「薩摩の理念」を思い起こさせてくれたことだという。それは薩摩藩に伝わる「郷中の掟」と「利他の心」である。
郷中の掟(インターネットから)とは、武道が第一である、武士道の本義を油断なく実践せよ、用事でグループ外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな、何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である、仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ、グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである、嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし、忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である、山坂を歩いて体を鍛えよ、髪型や、外見に凝ったりすることが二才(薩摩の若者)なのではない。万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である、この事は部外者には判らぬものである。これらはすべて厳重に守らなくてはならない、背けば二才と呼ぶ資格はなく、軍神にかけ、武運尽き果てることは疑いがない。その他には、負けるな、弱いものいじめをするな、金銭欲・利欲をもっとも卑しむべきことなど。
「利他の心」とは、人を愛するとは、己の欲や私心を無くし、人を思いやる 「利他の心」 をもって生きるべしという教えで、大久保利通などがよく使い、京セラを設立した稲盛和夫
言い換えれば、目先の利益ではなく、「利他の心を判断基準にする」ということで、私たちの心にはもともと「自分だけがよければいい」と考える利己の心と、「他によかれかし」と考える利他の心がある。「私利私欲を捨て、世のため人のために」という形の完全に利他的で純粋な願望を持つことが一番良いことである。