快をささえる難病ケア スターティングガイド(中)(2016/07/26)
筋ジストロフィー病棟のユートピア的世界
医師としての常識的な考え方とは訣別して、自ら「尖った道」を歩んで来たような河原先生の企画に依るこの本の、「患者の快楽の保証」という編集方針をまだ私は完全には理解できないでいる。
2015年1月から施行されている「難病法」の成立にたずさわった一人(厚生科学審議会難病対策委員会副委員長)であるが、その根本理念は「共生社会の実現」ということだった。今回の企画の背景として「難病法の成立や障害者総合支援法の改定で、難病患者と医療者の立ち位置が変わるチャンスで、難病患者が活き活きとできる国にしたい。そして在宅療養か入院療養かの選択が対立関係ではなく、お互いに補完し合い、高め合う関係にあるべき」という部分には異論をはさむ余地はない。
振り返ってみると、人の一生は偶然やたまたまで変わることが多い。
私はアメリカ留学後の1984年4月から国立療養所(現在の国立病院機構)南九州病院で働くことになった。いわゆる医局人事によるものだが、当時「筋ジストロフィーや神経難病医療を一生の仕事にしよう」という気持ちはさほど強くはなかった。ただ筋ジストロフィー病棟での現実を目のあたりにした時にはある種のカルチャーショックを味わったし、大学に帰ることをためらわせる何かがあった。そして気がつけば、30年間もの長い間、南九州病院で働いたことになる。
2013年3月に退官するときに地方紙の「ひろば」欄に、山田凡人君(脊髄性筋萎縮症)が「福永先生と過ごした輝ける年月」というタイトルで投稿している。・・・先生と過ごしてきた年月には、今は衰えてしまった身体でもそれぞれにはつらつとしていた瞬間があり、過酷な症状になってもベッド上から自分を発信する姿もある。またその中には、夢半ばで天に旅立った僚友たちの顔もあった・・・
赴任当時、私が筋ジストロフィー病棟で気になっていたことはいくつかある。
患者の病気や死の受容、患者の自己主張と病院職員の考える「我がまま」との折り合い、患者や家族との間のとり方、自立と自律などであった。ただこれらの課題に対する回答は、患者がそれぞれの「生き方や死に方」のなかで、自然と教えてくれたように感じている。
16歳の若さで亡くなった冨満誠一君は、亡くなる数日前まで、夢だったアメリカへの留学のための英検の勉強をしていた。「自分のしたいことはしたいし、そのために精一杯の努力をする」と言いつつ実践してきた彼の夢は叶えられなかった。ただ私たちの胸の中に、代えがたい大きな贈り物を残してくれた。健康とは体が自由に動くことだけではないのかもしれないと。
35歳であたかも旅に出るかのように逝った轟木敏秀君は、パソコンを自在に操り「寝たきりの生活でありながら、やる気さえあれば可能性は無限大に広がっていきます。近い将来、私も死を迎えます。死を前にしていかに生きるか、その答えは過去にこだわらず、常に前向きに一生懸命に生きていくことではないでしょうか。今日が終わらなければ明日はこない。今日を楽しむことが全てです」と、その著書「光彩」の中に記している。難病や根治的な治療法のないがんと告知された時の不安から逃れる術は、その日その日を一生懸命に生きることだと示してくれた。
医師としての常識的な考え方とは訣別して、自ら「尖った道」を歩んで来たような河原先生の企画に依るこの本の、「患者の快楽の保証」という編集方針をまだ私は完全には理解できないでいる。
2015年1月から施行されている「難病法」の成立にたずさわった一人(厚生科学審議会難病対策委員会副委員長)であるが、その根本理念は「共生社会の実現」ということだった。今回の企画の背景として「難病法の成立や障害者総合支援法の改定で、難病患者と医療者の立ち位置が変わるチャンスで、難病患者が活き活きとできる国にしたい。そして在宅療養か入院療養かの選択が対立関係ではなく、お互いに補完し合い、高め合う関係にあるべき」という部分には異論をはさむ余地はない。
振り返ってみると、人の一生は偶然やたまたまで変わることが多い。
私はアメリカ留学後の1984年4月から国立療養所(現在の国立病院機構)南九州病院で働くことになった。いわゆる医局人事によるものだが、当時「筋ジストロフィーや神経難病医療を一生の仕事にしよう」という気持ちはさほど強くはなかった。ただ筋ジストロフィー病棟での現実を目のあたりにした時にはある種のカルチャーショックを味わったし、大学に帰ることをためらわせる何かがあった。そして気がつけば、30年間もの長い間、南九州病院で働いたことになる。
2013年3月に退官するときに地方紙の「ひろば」欄に、山田凡人君(脊髄性筋萎縮症)が「福永先生と過ごした輝ける年月」というタイトルで投稿している。・・・先生と過ごしてきた年月には、今は衰えてしまった身体でもそれぞれにはつらつとしていた瞬間があり、過酷な症状になってもベッド上から自分を発信する姿もある。またその中には、夢半ばで天に旅立った僚友たちの顔もあった・・・
赴任当時、私が筋ジストロフィー病棟で気になっていたことはいくつかある。
患者の病気や死の受容、患者の自己主張と病院職員の考える「我がまま」との折り合い、患者や家族との間のとり方、自立と自律などであった。ただこれらの課題に対する回答は、患者がそれぞれの「生き方や死に方」のなかで、自然と教えてくれたように感じている。
16歳の若さで亡くなった冨満誠一君は、亡くなる数日前まで、夢だったアメリカへの留学のための英検の勉強をしていた。「自分のしたいことはしたいし、そのために精一杯の努力をする」と言いつつ実践してきた彼の夢は叶えられなかった。ただ私たちの胸の中に、代えがたい大きな贈り物を残してくれた。健康とは体が自由に動くことだけではないのかもしれないと。
35歳であたかも旅に出るかのように逝った轟木敏秀君は、パソコンを自在に操り「寝たきりの生活でありながら、やる気さえあれば可能性は無限大に広がっていきます。近い将来、私も死を迎えます。死を前にしていかに生きるか、その答えは過去にこだわらず、常に前向きに一生懸命に生きていくことではないでしょうか。今日が終わらなければ明日はこない。今日を楽しむことが全てです」と、その著書「光彩」の中に記している。難病や根治的な治療法のないがんと告知された時の不安から逃れる術は、その日その日を一生懸命に生きることだと示してくれた。
