快をささえる難病ケア スターティングガイド(前)(2016/07/25)
先日、「快をささえる難病ケア スターティングガイド」(医学書院刊)という一冊の単行本が送られてきた。昨日24日は、有楽町の輝咲で出版記念会の案内をもらっていたが、やはり東京は遠い。
この本、帯にも記されているように「・・・難病患者が快く日々を暮してゆけるために、ケア者が快くその支援を続けるために、第一線で活躍する当事者・看護師・保健師・介護士、医師・セラピストたちがその思いとノウハウを結集。入院療養と在宅ケアが互いに高め合う、新時代の難病ハンドブック」ということになる。そして大きく「変わろうとしなければ、何も始まらない」と書かれているが、けだし名言だと思う。まずは、アクションなくして何事もはじまらない。
執筆者一覧を眺めると、私の人生ともいうべき難病医療の40年の中で関わりのあったメンバーも多く、それぞれの人との関係も思い出しながら懐かしく振り返っている。
難病当事者の梶山滋さんとは松江病院の筋ジストロフィー病棟で、本書の編集者の一人である河原先生に紹介された。もう十数年前の出来事であるが、神奈川から夜行列車でやってきたという彼女(現在の奥さん)が、梶山君のベッドで睡眠をとっていたのにはびっくりしたものである。イラスト画に秀でていて、週刊朝日の山藤章二の似顔絵塾で何度も大賞に輝いたこともあるツワモノである。川村治子さんにも紹介して、彼女の執筆した「医療安全ワークブック」(医学書院刊、2004年)でもイラストを担当した。病院を退院され美人の看護師と結婚、一児と共に山口県に住んでおり、数年前に私が下関市で講演した時にはわざわざ会いに来てくれた。また和田美紀さんはアイザックス症候群リンゴの会代表で、彼女の頑張りでこの病気が難病法の指定難病の一つに取り上げられたといっても過言ではない。彼女は北海道で看護師として働いていたが、この病気の専門家である有村先生(大勝病院院長)の医療を受けたくて現在は鹿児島市に住んでいる。
さてこの本では、私は編者の一人河原先生と医学書院の編集者の青木さんに頼まれて、二編のコラムを書くことになった。筋ジス病棟を「ユートピア的世界」と称したが、私が関係した昭和59年(1984年)から平成9年(1997年)年までは、後半にはバブル崩壊はあったものの日本経済も順調に発展した時で、その恩恵を受ける形で筋ジス病棟の運営にもあらゆる面で余裕の感じられた時である。私たちも患者さんの自己実現を応援することを惜しまなかったし、それが可能になった時代であった。筋ジス患者の一人で、今でも語り草にもなっている轟木敏秀君が亡くなったのが平成10年8月3日だったが、ユートピア的世界の終焉だったのかもしれないと思うことである。
この本、帯にも記されているように「・・・難病患者が快く日々を暮してゆけるために、ケア者が快くその支援を続けるために、第一線で活躍する当事者・看護師・保健師・介護士、医師・セラピストたちがその思いとノウハウを結集。入院療養と在宅ケアが互いに高め合う、新時代の難病ハンドブック」ということになる。そして大きく「変わろうとしなければ、何も始まらない」と書かれているが、けだし名言だと思う。まずは、アクションなくして何事もはじまらない。
執筆者一覧を眺めると、私の人生ともいうべき難病医療の40年の中で関わりのあったメンバーも多く、それぞれの人との関係も思い出しながら懐かしく振り返っている。
難病当事者の梶山滋さんとは松江病院の筋ジストロフィー病棟で、本書の編集者の一人である河原先生に紹介された。もう十数年前の出来事であるが、神奈川から夜行列車でやってきたという彼女(現在の奥さん)が、梶山君のベッドで睡眠をとっていたのにはびっくりしたものである。イラスト画に秀でていて、週刊朝日の山藤章二の似顔絵塾で何度も大賞に輝いたこともあるツワモノである。川村治子さんにも紹介して、彼女の執筆した「医療安全ワークブック」(医学書院刊、2004年)でもイラストを担当した。病院を退院され美人の看護師と結婚、一児と共に山口県に住んでおり、数年前に私が下関市で講演した時にはわざわざ会いに来てくれた。また和田美紀さんはアイザックス症候群リンゴの会代表で、彼女の頑張りでこの病気が難病法の指定難病の一つに取り上げられたといっても過言ではない。彼女は北海道で看護師として働いていたが、この病気の専門家である有村先生(大勝病院院長)の医療を受けたくて現在は鹿児島市に住んでいる。
さてこの本では、私は編者の一人河原先生と医学書院の編集者の青木さんに頼まれて、二編のコラムを書くことになった。筋ジス病棟を「ユートピア的世界」と称したが、私が関係した昭和59年(1984年)から平成9年(1997年)年までは、後半にはバブル崩壊はあったものの日本経済も順調に発展した時で、その恩恵を受ける形で筋ジス病棟の運営にもあらゆる面で余裕の感じられた時である。私たちも患者さんの自己実現を応援することを惜しまなかったし、それが可能になった時代であった。筋ジス患者の一人で、今でも語り草にもなっている轟木敏秀君が亡くなったのが平成10年8月3日だったが、ユートピア的世界の終焉だったのかもしれないと思うことである。