生前退位(2016/07/22)
天皇陛下も82歳になり、「生前退位」を望まれているという意向が外部に伝わり、皇室典範や憲法の問題とも絡んで大きな議論を巻き起こしている。日常の公務がいかほどなのか調べてみると、このお歳では確かに大変なことだと思ってしまう。普通の感覚からいえば、「ご苦労様でした。老後をごゆっくり」と言って差し上げたいところだが、事は簡単にはいかないようである。
2009/12/11(金)に、【天皇陛下は超激務】というインターネット投稿がある。引用すると即位後この20年間に、閣議決定された書類への署名や押印 2万2377件、 外国の国王や大統領との面会 351回、外国の首相などとの面会 1068回、 着任した外国大使から書状を受け取る儀式 597回、首相や最高裁長官の親任式 24回、 大臣や大使など認証官の任命式 355回、 大綬章など勲章の親授式 40回、文化勲章の親授式 20回、様々な功績者との面会 1494回、赴任する大使との面会 476回、帰国した大使から話を聞くお茶会 153回、以上、皇居にて 4578回(署名や押印を除く)。 記念式典などの出席 356回、地方への訪問 246回、福祉施設などの訪問 172回、被災地へのお見舞いなど 15回、外国訪問 14回、以上、皇居外にて。これ以外に、神道の祭祀を日々こなしている。
ただ「生前退位」にはさまざまな法的な手続きが必要となるようである。憲法では「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」となっている。
退位した天皇は皇族に残るので、その呼称や地位、役割の規定、天皇の継承順位、皇室予算、元号の規定などさまざまである。いずれにせよ、冷静に、天皇の意を実現できる形で、粛々とした議論が望まれる。
私はたまたまの幸運で、2012年に皇居で両陛下に御接見いただけるという僥倖に恵まれた。当時の院内ランにその模様を書いてあるが、どこまで書いていいものか少し迷った記憶がある。「不適切」な感想など省いて、率直にありのままを書いたような気がする。興味のある方は、時間のある時にでも読んでみてください。
□ 授与式と御接見(1)
12月10日(2012年)は、私の人生にとって「記念すべき一日」となった。
午前中に人事院総裁賞の授与式が、そして午後から皇居で天皇・皇后両陛下とのご接見が予定されていた。そこで9日の朝、東京へと鹿児島空港を飛び立った。上京の時にはいつも単独で行動してきたが、今回は配偶者同伴ということで家内を伴っての珍しいパターンである。元来家内は出不精で今回も予想通り渋っていたが、両陛下にお会いできることは滅多にないことだと説得して一緒に出かけることとなった。
日曜日の早朝ということもあってか機内は空席が目立ち、座席もたまたま窓際だったので、冠雪した富士山をカメラに納めることができて、まずはラッキーな旅立ちである。荷物もあったので浜松町からタクシーで赤坂見附のエクセル東急に直行して、その荷物を預けた。そして二重橋の楠公の銅像の近くのお土産物店で、お土産物を選んだ。太陽は顔をだしているが木枯らしの吹きすさぶずいぶん寒い日だった。ホテルに帰り、夜はニンニクの利いた肉料理でもと思っていたが、陛下の前でニンニクの匂いでは失礼にあたると思って断念した。
さて当日は雲一つない快晴で、朝方は風もなく予報の温度は2度だったがさほど寒くは感じなかった。10時15分に明治記念館に集合となっていたので、ホテルを9時半前に出て、丸ノ内線と総武線と乗り継いで信濃町駅で降りた。記念館は元赤坂にあり、駅から歩いて数分の距離にあり、基本的には結婚式場のようである。気品ある美しい建物で、手入れの行き届いた中庭の樹木など歴史を感じさせるものがある。
指示されていた部屋に着くと既に他の受賞者は席に座っており、早速人事院の担当の方から日程の説明があった。授与式は11時15分に始まり、金屏風の前で総裁から一人一人に表彰状と副賞(七宝焼きの赤富士)の目録が渡された。受賞者の各府省代表者も陪席して下さり、機構本部の桐野理事長も自ら出席していただいた。そのあと記念の写真撮影があり、お昼の昼食会まで庭内の散策などで過ごした。職域部門の受賞者の一人である法務省の沖縄女子学園長の渡辺さんと話す機会があったが、彼女は鹿児島市の出身で私の高校の後輩で、父親が在宅クリニックの五反田先生にお世話になったという。昨年この園に異動して(園としては、更生者に対する沖縄織物や陶芸など40年近くの活動に対する評価だという)今回の受賞に至ったということで、私の場合もそうであるが宝くじに当たったような幸運である。
12時半から人事院幹部と選考委員も交えた昼食懇談会である。まず人事院総裁の原恒雄氏が、「この賞は現在の天皇陛下が皇太子の時代に始まったものですが、天皇陛下となられてからも『ご接見』を強く希望されて続いているようです」と話された。そのあと、選考委員長の樋口公啓氏から各受賞者の受賞理由の説明があったが、私の説明が最も長く、毎朝早く病院に来てこの「院内ラン」で情報の発信をしていることも紹介された。
私の前は作家の西木正明氏(直木賞受賞者)で、作家で編集者もしていたというだけあっていろいろ面白い話題を提供されていた。作家は品性の悪い人ほど美しい文章を書く人が多いとか、悪筆の代表は石原慎太郎で、あとで編集者が聞きに行ったら自分でも読み解けなかったとか、パソコンで書くようになってから文章のセンテンスを一度頭の中で作ってから打つようになった(万年筆で書く頃は、考えたことと書く事が時間的に一致していた)ことなど。私は読売新聞社の橋本五郎さんと話をしたかったが、遠く離れていたのでその機会が取れずに、会の終了後に挨拶するだけにとどまった。
□ 授与式と御接見(2)
いよいよ14時15分に、マイクロバスで皇居へと向かった。以前は二人ずつお召しの車で行かれたようであるが、今回はご一行様ということになりこれも経費節減の一環かもしれない。どうせなら二重橋から皇居に入りたかったが、工事中ということで皇居前広場を突き抜けて、坂下門から「北車寄」に到着した。
そこで制服に身を固めた宮内庁の職員が恭しく出迎えてくれた。階段を登るといよいよ宮殿の入り口となる「北溜(きただまり)」である。天井がやけに高く、中央にはクリスタルガラスを散りばめたシャンデリアが2基下がっており、入り口の横には馬に乗った天女の銅像が置いてあった。インターネットで調べると、この北溜は山口県産松葉石(黒御影石)・熊本県産市房杉・宮崎県産日向松・沖縄県産勝連(大理石)などが使用されているという。
そこで15分ほどの休憩という説明があったので、尿意はなかったがトイレを利用した。ゆったりとしており、陶器製の純白の小便器が3つ置かれていたが、「一歩前にお進みください」などといったような野暮な注意書きなどはなかった。お手拭きの紙は当院のものを何枚も重ねたような厚さで、ずいぶん高価に思えた(家内によると、女子トイレには手鏡などの化粧直しができるような備品も備えられていたという)。
14時50分頃、宮内庁の職員の案内で20段ほどもある階段を上り、北の間から白砂の敷き詰められた中庭の回廊を歩いていく。私の院長室と違ってふわふわの萌黄色の絨毯が敷かれており、体が沈みそうになる。豊明殿の前を通り、接見の間である「連翠」に着く。「連翠」の間も宮崎県産や神奈川県産の松材が使用され、桂離宮の松琴亭一の間の白と濃い青の市松模様の襖がモデルとなった四段からなる無双窓がある。部屋の片隅には小さな台の上に、花瓶に花がいけられている。
早速宮内庁の職員から、受賞者の立ち位置(家内はそれぞれ左側に)とご接見の手順の説明がある。しばらく整列して直立不動の姿勢で待っていると、両陛下が侍従長や女官長を従えて静かに歩いてこられた。この時ばかりはさすがに緊張して、横目で見ながらぎこちなく一同礼の挨拶でお迎えした。
両陛下は大きな部屋の中央に立ちどまる。皇后陛下は一歩引いた位置に立たれ、両手を前に組みながら少しうつむいておられる。事務総長が一歩進み出て、ご挨拶を申し上げる。その後、一人一人の受賞者の前で、両陛下に所属と名前、顕彰理由を含めてご紹介されると静かに頷かれる(それぞれの左の胸には、事前に名札を付けてあった)。その後両陛下は、二手に分かれて受賞者と親しく懇談となった。
私は右から2番目の位置に立っていたので、天皇陛下からである。にこやかな表情で来られて、ホーキング博士の病気(ALSのこと)の治療の現状や今後の見通し、そして患者さんを介護しておられる家族の苦労について聞かれた。また筋ジストロフィー患者さんの治療で苦労されていること、生命予後や闘病中の患者さんの気持ちなどについてもおたずねになられた。家内には「こんなに忙しいご主人を支えていかれるのは大変だったでしょう」などのねぎらいの言葉も賜った。以前、天皇陛下のスーツやズボンには(何の理由かは忘れてしまったが)ポケットがないと聞いたことがあったが、確かに一つもポケットもなかった。私など、これでは大変不自由だと思うのだが、お財布などを自分で持たれることはないのだろう。
□ 授与式と御接見(3)
皇后陛下がおこしになられるまでにちょっと時間が空いたら、(お気遣いなのか)女官長がしずしずとお話にこられた。昔はさぞかし美しかっただろうと思われる小柄で上品な女性で、「鹿児島からの道中、大変だったでしょう、お帰りの時には見物などなされてはいかがでしょうか」に始まって、随分長いあいだ話し込まれた。「陛下は昨年の大震災の時には大変お心を痛められて、私たちが陛下のお身体のことを大変心配いたしました。今朝も両陛下とも義肢装具サポートセンターをご訪問なされるなど、激務でいらっしゃいます」など、かねての生活ぶりも紹介してくださった。
帰ってからインターネットで調べてみると、この女性は桂小五郎(木戸孝允)とあの幾松の玄孫( やしゃご/ひ孫の子)にあたるということである。
しばらくして皇后陛下が来られて、「鹿児島からですか」とやさしくお声をかけてくださったので、「第三内科の井形先生の門下です」と、ちょっとピント外れを承知でお答えした。「病気の患者さんの胸を押されて、呼吸を助けられておられるのですか」と言われたので、「今は性能のいい人工呼吸器がありますので、直接胸を押さなくてもすんでおります」などとお答えした。私の顕彰の理由など事前に読まれている感じだった。家内には「お忙しい方を陰で支えて行かれるのは大変なご苦労がおありでしょう」と、天皇陛下と同じようなねぎらいのお言葉を賜った。
両陛下とも、ゆっくりと丁寧なお言葉でお話しされるのでよく聞き取れる。そして部屋の中は物音一つもせず、実に静寂な空間である。東京のど真ん中にありながら、これだけの静寂さが保たれるのも不思議な気もする。
この間、白い制服の宮内庁の若い男性職員が、日本茶と和菓子を配られた。お茶はお湯に近いほど薄く、お菓子は白い紙の上に載せられており、色鮮やかで8の字をしたような物や木の葉を模したような形をしていた。片手の掌にお茶を持っているので、お箸ではつまみにくいので行儀が悪いと思ったが素手で取った。それでも気を付けないとお茶をこぼしそうになる。両陛下も同じようにお茶碗を持ってお話しされるが、さすがになれておられるのか、自然なお振る舞いである。
30分近く経って、事務総長がお礼を申し述べた。最後に天皇陛下から「日本国や国民のためにご貢献いただき、ありがたく思います。今後もお体を大切にして国民のために尽くされることを希望します」と言うようなお言葉を賜りご接見は終了した。一同で両陛下をお見送りして、来た道を帰ることになった。
途中、長和殿や豊明殿、一般参賀の場所などを説明してもらった。部屋や廊下の壁などに名だたる画家の絵も飾られていたようであるが、事前の「学習」がなかったのでそのまま素通りしてよく思い出せない。宮殿を出て、「松の塔」の前で記念の集合写真を撮り、マイクロバスに乗りこんだ。約一時間半の皇居滞在はつつがなく終わった。
宮殿の建物は簡素で清潔で、有名な産地の杉や松などを利用しており、日本古来の「わび・さび」の伝統を守っている感じを受けた。また両陛下は80歳近くになられておられるが、毎日このような執務は大変なことだろうと察せられた。特に天皇陛下はいくつかの病気も抱えておられるし、もう少しお役目を制限できないものかと思ってしまう。でも、今回のようなご接見は、お会いする側のわがままからいえば「是非とも」ということになる。
ご接見の翌朝、「お茶などお召し上がりになりますでしょうか」とは家内の言葉である。急にやさしい言葉遣いに変身していたが、翌々日からはもとの言葉に戻っていた。
後で考えてみれば、皇居に入るにあたっての注意事項は、携帯電話の電源を切ることと加治木まんじゅうのようなお土産を渡さないことの2点のみであった。健康のチェックや不審物の携帯などのボディーチェックもあるのかと思っていたが、「公務員の鑑?!」という信頼の上に立ってのことだろうがちょっと拍子抜けした。
それでもこのような機会はめったにあるものではないので、得難い経験をさせてもらったことになる。
2009/12/11(金)に、【天皇陛下は超激務】というインターネット投稿がある。引用すると即位後この20年間に、閣議決定された書類への署名や押印 2万2377件、 外国の国王や大統領との面会 351回、外国の首相などとの面会 1068回、 着任した外国大使から書状を受け取る儀式 597回、首相や最高裁長官の親任式 24回、 大臣や大使など認証官の任命式 355回、 大綬章など勲章の親授式 40回、文化勲章の親授式 20回、様々な功績者との面会 1494回、赴任する大使との面会 476回、帰国した大使から話を聞くお茶会 153回、以上、皇居にて 4578回(署名や押印を除く)。 記念式典などの出席 356回、地方への訪問 246回、福祉施設などの訪問 172回、被災地へのお見舞いなど 15回、外国訪問 14回、以上、皇居外にて。これ以外に、神道の祭祀を日々こなしている。
ただ「生前退位」にはさまざまな法的な手続きが必要となるようである。憲法では「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」となっている。
退位した天皇は皇族に残るので、その呼称や地位、役割の規定、天皇の継承順位、皇室予算、元号の規定などさまざまである。いずれにせよ、冷静に、天皇の意を実現できる形で、粛々とした議論が望まれる。
私はたまたまの幸運で、2012年に皇居で両陛下に御接見いただけるという僥倖に恵まれた。当時の院内ランにその模様を書いてあるが、どこまで書いていいものか少し迷った記憶がある。「不適切」な感想など省いて、率直にありのままを書いたような気がする。興味のある方は、時間のある時にでも読んでみてください。
□ 授与式と御接見(1)
12月10日(2012年)は、私の人生にとって「記念すべき一日」となった。
午前中に人事院総裁賞の授与式が、そして午後から皇居で天皇・皇后両陛下とのご接見が予定されていた。そこで9日の朝、東京へと鹿児島空港を飛び立った。上京の時にはいつも単独で行動してきたが、今回は配偶者同伴ということで家内を伴っての珍しいパターンである。元来家内は出不精で今回も予想通り渋っていたが、両陛下にお会いできることは滅多にないことだと説得して一緒に出かけることとなった。
日曜日の早朝ということもあってか機内は空席が目立ち、座席もたまたま窓際だったので、冠雪した富士山をカメラに納めることができて、まずはラッキーな旅立ちである。荷物もあったので浜松町からタクシーで赤坂見附のエクセル東急に直行して、その荷物を預けた。そして二重橋の楠公の銅像の近くのお土産物店で、お土産物を選んだ。太陽は顔をだしているが木枯らしの吹きすさぶずいぶん寒い日だった。ホテルに帰り、夜はニンニクの利いた肉料理でもと思っていたが、陛下の前でニンニクの匂いでは失礼にあたると思って断念した。
さて当日は雲一つない快晴で、朝方は風もなく予報の温度は2度だったがさほど寒くは感じなかった。10時15分に明治記念館に集合となっていたので、ホテルを9時半前に出て、丸ノ内線と総武線と乗り継いで信濃町駅で降りた。記念館は元赤坂にあり、駅から歩いて数分の距離にあり、基本的には結婚式場のようである。気品ある美しい建物で、手入れの行き届いた中庭の樹木など歴史を感じさせるものがある。
指示されていた部屋に着くと既に他の受賞者は席に座っており、早速人事院の担当の方から日程の説明があった。授与式は11時15分に始まり、金屏風の前で総裁から一人一人に表彰状と副賞(七宝焼きの赤富士)の目録が渡された。受賞者の各府省代表者も陪席して下さり、機構本部の桐野理事長も自ら出席していただいた。そのあと記念の写真撮影があり、お昼の昼食会まで庭内の散策などで過ごした。職域部門の受賞者の一人である法務省の沖縄女子学園長の渡辺さんと話す機会があったが、彼女は鹿児島市の出身で私の高校の後輩で、父親が在宅クリニックの五反田先生にお世話になったという。昨年この園に異動して(園としては、更生者に対する沖縄織物や陶芸など40年近くの活動に対する評価だという)今回の受賞に至ったということで、私の場合もそうであるが宝くじに当たったような幸運である。
12時半から人事院幹部と選考委員も交えた昼食懇談会である。まず人事院総裁の原恒雄氏が、「この賞は現在の天皇陛下が皇太子の時代に始まったものですが、天皇陛下となられてからも『ご接見』を強く希望されて続いているようです」と話された。そのあと、選考委員長の樋口公啓氏から各受賞者の受賞理由の説明があったが、私の説明が最も長く、毎朝早く病院に来てこの「院内ラン」で情報の発信をしていることも紹介された。
私の前は作家の西木正明氏(直木賞受賞者)で、作家で編集者もしていたというだけあっていろいろ面白い話題を提供されていた。作家は品性の悪い人ほど美しい文章を書く人が多いとか、悪筆の代表は石原慎太郎で、あとで編集者が聞きに行ったら自分でも読み解けなかったとか、パソコンで書くようになってから文章のセンテンスを一度頭の中で作ってから打つようになった(万年筆で書く頃は、考えたことと書く事が時間的に一致していた)ことなど。私は読売新聞社の橋本五郎さんと話をしたかったが、遠く離れていたのでその機会が取れずに、会の終了後に挨拶するだけにとどまった。
□ 授与式と御接見(2)
いよいよ14時15分に、マイクロバスで皇居へと向かった。以前は二人ずつお召しの車で行かれたようであるが、今回はご一行様ということになりこれも経費節減の一環かもしれない。どうせなら二重橋から皇居に入りたかったが、工事中ということで皇居前広場を突き抜けて、坂下門から「北車寄」に到着した。
そこで制服に身を固めた宮内庁の職員が恭しく出迎えてくれた。階段を登るといよいよ宮殿の入り口となる「北溜(きただまり)」である。天井がやけに高く、中央にはクリスタルガラスを散りばめたシャンデリアが2基下がっており、入り口の横には馬に乗った天女の銅像が置いてあった。インターネットで調べると、この北溜は山口県産松葉石(黒御影石)・熊本県産市房杉・宮崎県産日向松・沖縄県産勝連(大理石)などが使用されているという。
そこで15分ほどの休憩という説明があったので、尿意はなかったがトイレを利用した。ゆったりとしており、陶器製の純白の小便器が3つ置かれていたが、「一歩前にお進みください」などといったような野暮な注意書きなどはなかった。お手拭きの紙は当院のものを何枚も重ねたような厚さで、ずいぶん高価に思えた(家内によると、女子トイレには手鏡などの化粧直しができるような備品も備えられていたという)。
14時50分頃、宮内庁の職員の案内で20段ほどもある階段を上り、北の間から白砂の敷き詰められた中庭の回廊を歩いていく。私の院長室と違ってふわふわの萌黄色の絨毯が敷かれており、体が沈みそうになる。豊明殿の前を通り、接見の間である「連翠」に着く。「連翠」の間も宮崎県産や神奈川県産の松材が使用され、桂離宮の松琴亭一の間の白と濃い青の市松模様の襖がモデルとなった四段からなる無双窓がある。部屋の片隅には小さな台の上に、花瓶に花がいけられている。
早速宮内庁の職員から、受賞者の立ち位置(家内はそれぞれ左側に)とご接見の手順の説明がある。しばらく整列して直立不動の姿勢で待っていると、両陛下が侍従長や女官長を従えて静かに歩いてこられた。この時ばかりはさすがに緊張して、横目で見ながらぎこちなく一同礼の挨拶でお迎えした。
両陛下は大きな部屋の中央に立ちどまる。皇后陛下は一歩引いた位置に立たれ、両手を前に組みながら少しうつむいておられる。事務総長が一歩進み出て、ご挨拶を申し上げる。その後、一人一人の受賞者の前で、両陛下に所属と名前、顕彰理由を含めてご紹介されると静かに頷かれる(それぞれの左の胸には、事前に名札を付けてあった)。その後両陛下は、二手に分かれて受賞者と親しく懇談となった。
私は右から2番目の位置に立っていたので、天皇陛下からである。にこやかな表情で来られて、ホーキング博士の病気(ALSのこと)の治療の現状や今後の見通し、そして患者さんを介護しておられる家族の苦労について聞かれた。また筋ジストロフィー患者さんの治療で苦労されていること、生命予後や闘病中の患者さんの気持ちなどについてもおたずねになられた。家内には「こんなに忙しいご主人を支えていかれるのは大変だったでしょう」などのねぎらいの言葉も賜った。以前、天皇陛下のスーツやズボンには(何の理由かは忘れてしまったが)ポケットがないと聞いたことがあったが、確かに一つもポケットもなかった。私など、これでは大変不自由だと思うのだが、お財布などを自分で持たれることはないのだろう。
□ 授与式と御接見(3)
皇后陛下がおこしになられるまでにちょっと時間が空いたら、(お気遣いなのか)女官長がしずしずとお話にこられた。昔はさぞかし美しかっただろうと思われる小柄で上品な女性で、「鹿児島からの道中、大変だったでしょう、お帰りの時には見物などなされてはいかがでしょうか」に始まって、随分長いあいだ話し込まれた。「陛下は昨年の大震災の時には大変お心を痛められて、私たちが陛下のお身体のことを大変心配いたしました。今朝も両陛下とも義肢装具サポートセンターをご訪問なされるなど、激務でいらっしゃいます」など、かねての生活ぶりも紹介してくださった。
帰ってからインターネットで調べてみると、この女性は桂小五郎(木戸孝允)とあの幾松の玄孫( やしゃご/ひ孫の子)にあたるということである。
しばらくして皇后陛下が来られて、「鹿児島からですか」とやさしくお声をかけてくださったので、「第三内科の井形先生の門下です」と、ちょっとピント外れを承知でお答えした。「病気の患者さんの胸を押されて、呼吸を助けられておられるのですか」と言われたので、「今は性能のいい人工呼吸器がありますので、直接胸を押さなくてもすんでおります」などとお答えした。私の顕彰の理由など事前に読まれている感じだった。家内には「お忙しい方を陰で支えて行かれるのは大変なご苦労がおありでしょう」と、天皇陛下と同じようなねぎらいのお言葉を賜った。
両陛下とも、ゆっくりと丁寧なお言葉でお話しされるのでよく聞き取れる。そして部屋の中は物音一つもせず、実に静寂な空間である。東京のど真ん中にありながら、これだけの静寂さが保たれるのも不思議な気もする。
この間、白い制服の宮内庁の若い男性職員が、日本茶と和菓子を配られた。お茶はお湯に近いほど薄く、お菓子は白い紙の上に載せられており、色鮮やかで8の字をしたような物や木の葉を模したような形をしていた。片手の掌にお茶を持っているので、お箸ではつまみにくいので行儀が悪いと思ったが素手で取った。それでも気を付けないとお茶をこぼしそうになる。両陛下も同じようにお茶碗を持ってお話しされるが、さすがになれておられるのか、自然なお振る舞いである。
30分近く経って、事務総長がお礼を申し述べた。最後に天皇陛下から「日本国や国民のためにご貢献いただき、ありがたく思います。今後もお体を大切にして国民のために尽くされることを希望します」と言うようなお言葉を賜りご接見は終了した。一同で両陛下をお見送りして、来た道を帰ることになった。
途中、長和殿や豊明殿、一般参賀の場所などを説明してもらった。部屋や廊下の壁などに名だたる画家の絵も飾られていたようであるが、事前の「学習」がなかったのでそのまま素通りしてよく思い出せない。宮殿を出て、「松の塔」の前で記念の集合写真を撮り、マイクロバスに乗りこんだ。約一時間半の皇居滞在はつつがなく終わった。
宮殿の建物は簡素で清潔で、有名な産地の杉や松などを利用しており、日本古来の「わび・さび」の伝統を守っている感じを受けた。また両陛下は80歳近くになられておられるが、毎日このような執務は大変なことだろうと察せられた。特に天皇陛下はいくつかの病気も抱えておられるし、もう少しお役目を制限できないものかと思ってしまう。でも、今回のようなご接見は、お会いする側のわがままからいえば「是非とも」ということになる。
ご接見の翌朝、「お茶などお召し上がりになりますでしょうか」とは家内の言葉である。急にやさしい言葉遣いに変身していたが、翌々日からはもとの言葉に戻っていた。
後で考えてみれば、皇居に入るにあたっての注意事項は、携帯電話の電源を切ることと加治木まんじゅうのようなお土産を渡さないことの2点のみであった。健康のチェックや不審物の携帯などのボディーチェックもあるのかと思っていたが、「公務員の鑑?!」という信頼の上に立ってのことだろうがちょっと拍子抜けした。
それでもこのような機会はめったにあるものではないので、得難い経験をさせてもらったことになる。
