Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

誕生日(2016/07/11) 

昨日、7月10日は私の誕生日であった。日曜日だったがいつものように病院に行こうと外に出ると、あいにくの雨である。プリウスに乗ると「納豆の日」だと教えてくれる。単なる語呂合わせのようである。
 病院に着いてから、前日一色さんから届いたバースデイカードを開くと、誕生日を祝う歌が聞こえてくる。一色さんは隼人のご自宅で療養中のALSの患者さんであるが、私と同年齢である。京セラの研究所長の時に病気となり、病気を冷静に受け止めながら患者さんの立場からさまざまな情報発信をされてきた。現在では意志疎通も難しくなっているようだが、ずっと付き添ってこられた奥さから最高のケアを受けておられる。「人間って、やはりすごいなあ」と、いつも思えるご夫妻である。
 10時ごろ花屋さんから、「山下さんからお花の依頼があったのですが・・・」ということで、山下さんに電話する。山下さんは自ら筋ジストロフィーであるが、宮崎市に福祉の大コンチェルンを構築した。患者さんの声を聴きながら、行政も協力し、素晴らしい施設群を立ち上げたのである。「坂元兄弟も元気ですよ。なかなか死なないですよ・・・」と聞いたので、「博樹は思いを遂げられましたね」と話すことだった(長い物語になるので、その経緯を知らない方には意味不明か。時間のある方は、昔書いたものを添付した)。「私が生きている限り、先生の誕生日には花をおくりますので」で電話は終わった。
 ところで・・・この年になると、誕生日と言ってもとりたててどういうこともないのだが、今年は参議院議員選挙と鹿児島県知事選挙の投票日と重なり忙しい一日になった。当初は「アクティブ65」を利用して福岡に行く予定にしていたのだが、駅の窓口で「6月でこの切符は終わりとなりました」と言われてしまった。シニアには使い勝手のいい割得なサービスだったので本当に残念である。仕方なく、病院の院長室で普通の一日と同じような生活になってしまったのである。
 以前にも書いたことであるが、私の生まれた昭和22年で、当日の「朝日新聞」の天声人語では「現物給與」について書いている。読み返してみると、まさに隔世の感がある。
 「製薬会社はサッカリンを、電気会社は電球を、劇場映画館は入場券を、ビール会社はビールを、専売局は煙草を現物配給していたようで、その配給日には闇市は門前市をなして、たちまち現金化されていた」という。現物給與は国鉄従業員には無賃パスが配られていたようで、「運賃の安い頃から問題だったが、三倍半にはね上がってみると、高い切符を行列で買う苦労もなく、涼しい顔をして乗れる身分が結構すぎる」と断じている。
 敗戦から2年も経っていない時代の世相で、日本社会は混乱の極みにあったかと思うが、私は小学入学の頃までのことは余りよく覚えていない。
 最近、若い頃にテレビなどでよく目にしていた芸能人が次々と亡くなったり、身近な先輩や同級生の訃報を聞く機会がふえてきた。私の大学の卒業者数は100人前後だったかと思うが、知っている限り23人が亡くなっている。「遠からず自分もその仲間入りすることになるのかな」との想いが自然と胸の中にやんわりと染みこんで来る。それなりに折り合いをつけて潔く受け入れたいと思うのだが、これは結構難しいことである。
 「沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」という徒然草の一節を紹介するまでもなく、死の影は前からばかりでなく後ろからもやってくる。
■ 人助けは自分助けだ(まほろば福祉会創立20周年記念誌から)
先日、社会福祉法人「まほろば福祉会」から創立20周年「記念誌」が、「百年の孤独(焼酎))」とともに郵送されてきた。わずか20年で、6つの障がい者関連施設を有する宮崎県一の社会福祉法人に急成長した。この発展の影には、自らも筋ジストロフィーである理事長の山下ヤス子さんの人格と熱意に負う部分が大きいと思っている。「医者の不養生と言われないように、元気でいてくださいね」という、山下さんからのお礼状まで添えられていた。早速電話してみると、相変わらずの元気な声で、障がい福祉サービス事業所「天領の杜」の施設長も兼務しているということで、そこからの電話だった。「先週、岩尾さんが亡くなってねえ」ということ、当院にも長いこと入院していたことがあり、46歳だったという。ご冥福をお祈りしたい。
  「人助けは自分助けだ」(20周年記念紙への寄稿)
 まずは、20周年を迎えた「まほろば福祉会」に、深甚の敬意を表したい。難しいかじ取りを必要とするこの時代に着実に発展してきたこと、「自助、共助、公助」がうまくかみ合った結果と認識している。
 先日、世界中の人に惜しまれながら56歳の若さで亡くなった「アップル社」のスティーブ・ジョブズ氏と、「まほろば福祉会」理事長の山下ヤス子さんには重なる部分がある。お二人とも、「失うものは何もない」という一種の開き直りから、ジョブズ氏は数々のアイデアを魅力的な商品として結実させ、いわゆるIT革命を成し遂げた。一方の山下さんは、「仲間の思いを一緒に実現させたい」という強い信念で次々に福祉施設を立ち上げ、今日の「まほろば福祉会」をここまで大きく発展させてきた。
 私が山下さんと親しくなったきっかけは、二つある。一つは平成6年に、やじろべえ作業所に厚生省研究班の「生活ガイドQ&A」を製本・印刷してもらったこと、もう一つは当院に入院していた筋ジストロフィーの轟木敏秀君が何度も「Be・Free」にお世話になったことである。敏秀君は平成10年の8月3日に亡くなっているので、今から考えてもかなり進行した状態でお世話になったことになる。それでもここの家庭的な雰囲気が気に入ったのか、はたまた好きな女性が出来たのか、何回もお世話になったように記憶している。一度など、心配してわざわざ加治木から着いて来たのに、部屋に入ると「もう用はない」という扱いで、「勝手にせー」と怒って帰ったこともあった。またその後も、当院から勇さんや岩尾さん、亡くなった山中さんなど大変お世話になったのである。
 とりわけ最もお世話になっているのは坂元兄弟だろう。兄の貴博君、そして弟の博樹君と、二人とも終日鼻マスク型の人工呼吸器を装着しているが、博樹君の方は経理面で山下さんの片腕となっていると聞いている。仕事場も隣の机だという(山下さんは理事長であるが、専用の部屋はなく他の職員と机を並べている)ことで、山下さんの口癖の「お金をもらっている間は死なない」を実践してくれている。
 山下さんはある会で、「仲間たちに支えられてここまで来たこと、そして仲間たちのために100歳まで生きなければならない」と語ったが、是非とも自からの健康にも留意して長生きされ、この「まほろば福祉会」をますます発展させて欲しいと願っている。
 山下さんの生き方をみていると、「人助けは、結局は自分助けだ」と思うことである。