Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

ドクターズマガジンと武先生(2016/07/04) 

ところで武先生との「ご縁」も懐かしく感じている。
 私と先生との初めての出会いは、昭和54年に鹿児島市立病院に一年間出張したときのことである。先生はその時には小児科部長だったと思われるが、部屋に入ると開口一番「お前は同郷の先輩の所に挨拶にも来ないのか。頴娃町では武、福永(川平)・・・は一緒になって町を支えてきた間柄なのだ」など、初対面だというのに懇々と説教されたのである(武先生の父も、そして私の叔父も頴娃町長をしたことがあったからだろうか)。それまで直接話をしたことはなかったが、先生のことは人づてにはよく聞いており、また父君は鶴丸高校の校長先生を歴任されていたし、叔父さんは田舎の中学校で私の兄の社会科の先生だった。
 その後、鹿児島市立病院長を2期8年された後、「病院のカルロス・ゴーン」と形容されるように埼玉県、川崎市とわたり歩きながら、赤字続きの自治体病院を次々と黒字化し、その手腕と名声は医療関係者の間には知らない人はいないくらいだった。
 先生の手法は、旧態依然とした日本の医療界の学閥・官僚支配を廃して、病院改革を断行したことである。まずいい医師の確保のためには、最大限の努力を惜しまなかったという話を聞いたことがある。また看護師の地位向上のために看護師副院長の誕生にも意を尽くされた。そして全国の自治体病院の経営データの分析から当該病院の問題点を明らかにして、病院職員に経営情報を開示し改善計画を立てていくという手法である。その経験は、「こうしたら病院はよくなった!」という著書にまとめられている。
 また当時志学館大学剣道師範の會田先生とは甲南高校の同級生だったといこことで、ゴルフを楽しんだこともあったし、私の娘が乳児だった頃に発育相談に乗ってもらったこともある。その他にも、先生の娘さんが南九州病院で小児科医として数年間、働かれていたという縁もある。
 時々、忘れた頃に電話がかかってきて、「福永君、この問題では先生に相談するのが一番だと思ってね」と、いつもの柔和な顔が電話口に現れるようである。私の本もよく読んでくれていて、「先生は感心だね、私も時間ができたら、また随筆や小説なども書きたいのだけど」と話されていた。先生は文藝春秋の「年間ベストエッセイ」に3回も掲載されるという快挙も成し遂げるなど、素晴らしい文筆家でもあった。
 2009年4月、東京の知人から、「武弘道先生が17日に亡くなられたとのことです」という電話を受けたのは、亡くなられて3日後の朝だった。奥様からの電話によると、「葬儀など全て終わりました」とのことである。体調を崩されて入院されているということは聞いていたが、こんなに早く訃報に接するとは思いもよらなかった。
 南日本新聞に訃報記事が載せられていたが、先生がかねて大好きだと話されていた西郷や大久保などの維新の志士と同じように、自らも矜持を重んじる薩摩人としての身のふり方の一つを後進に示されたように思う。
 叶わないことだが、今でも胸襟を開いた四方山話をしてみたいお一人である。